石清水八幡宮から南へ約2km行ったところにある「松花堂」の庭園・美術館に行ってみた。ここも文化財特別公開のところだった。
松花堂というのは人の名前で、男山・石清水八幡宮の寺坊の一つ「滝本坊」の住職を務めた松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)のこと。江戸時代初期、寛永年間に活躍した昭乗は、僧として最高の位である阿闍梨(あじゃり)の位にまで上り、近衛信尹(このえのぶただ)、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)と共に、「寛永の三筆」と評された書の達人で、書画や和歌、茶の湯にも通じた一流の文化人。寛永14年(1637年)に住職を退いた昭乗は、「泉坊」という寺坊に草庵「松花堂」を建て、晩年を過ごした。草庵「松花堂」は明治の神仏分離の際に山麓に移され、さらに明治24年(1891年)に現在地に移築された。昭和52年(1977年)より八幡市の所有となった「松花堂庭園」では、草庵「松花堂」をはじめ、茶室や書院、広大な庭園を公開している。また、平成14年(2992年)4月にオープンした「松花堂美術館」では年間を通じて、松花堂昭乗が遺した作品や昭乗ゆかりの人たちの美術品を展示している。
ちなみに、「松花堂」というと、四角い塗り箱に懐石料理を盛り込んだ「松花堂弁当」を思い出す。昭乗は農家で種入れに使っていた四つ切箱(田の字に仕切られた箱)を、絵の具入れや茶席の煙草盆として用いたと伝わっている。それから時を経て昭和初期に、その四つ切箱からヒントを得た「吉兆」の創業者が、懐石料理の弁当を創作。そして四角い箱に蓋をつけ、昭乗に敬意を払って「松花堂」の焼印を蓋に押し、自身の店である「吉兆」で客に提供したのが始まり。今では同様の四つ切の弁当が、松花堂弁当として広く知られている。八幡は「松花堂弁当」の発祥の地である。
今回、庭園散策では池泉回遊式日本庭園、茶室の松隠・梅隠・竹隠、泉坊書院、女郎花塚などをみて、まだ紅葉には早い時期であるが優雅な庭園を楽しんだ。また、美術館では松花堂昭乗の人物像と遺品をみて学んだ。
2016年10月30日日曜日
「石清水八幡宮」拝観
28日から秋期京都非公開文化財特別公開が行なわれており、その中の1箇所である「石清水八幡宮」に自転車(約1時間)で、途中国史跡「樟葉台場跡」に立ち寄ってから行ってみた。
本殿への行きは八幡駅からケーブルカーに乗車、帰りは表参道を下り、途中「松花堂弁当」の由来となった石清水八幡宮の僧であった松花堂昭乗の晩年の住居・草庵跡地である「松花堂跡」にも立ち寄ってみた。
この日は日曜日でもあり、七五三参りや特別公開の関係で賑わっていた。本殿に参拝後に文化財特別公開を拝観、本殿の廻廊の2箇所にて文化財関係者から祭神、八幡造りの本殿、楼門などの説明を受け、欄間の鳥や動物植物などの彫刻、織田信長が寄進したという「黄金の雨樋」(通常は非公開)などを見て回った。
上の写真は本殿、中の写真は主な象・龍などの彫刻で見事なもの。下の写真右上は展望台から京都市内方面を望む、微かに京都タワーが見える。左下は廻廊、右下は「松花堂跡」である。
本殿への行きは八幡駅からケーブルカーに乗車、帰りは表参道を下り、途中「松花堂弁当」の由来となった石清水八幡宮の僧であった松花堂昭乗の晩年の住居・草庵跡地である「松花堂跡」にも立ち寄ってみた。
この日は日曜日でもあり、七五三参りや特別公開の関係で賑わっていた。本殿に参拝後に文化財特別公開を拝観、本殿の廻廊の2箇所にて文化財関係者から祭神、八幡造りの本殿、楼門などの説明を受け、欄間の鳥や動物植物などの彫刻、織田信長が寄進したという「黄金の雨樋」(通常は非公開)などを見て回った。
上の写真は本殿、中の写真は主な象・龍などの彫刻で見事なもの。下の写真右上は展望台から京都市内方面を望む、微かに京都タワーが見える。左下は廻廊、右下は「松花堂跡」である。
国史跡「樟葉台場跡」
28日から秋期京都非公開文化財特別公開が行なわれており、その1箇所である「石清水八幡宮」に自転車(約1時間)で行く途中、枚方市の八幡市との境界にある国史跡「樟葉台場跡」に立ち寄ってみた。ここは平成23年2月7日、 内陸部の河川に面して設置された台場は珍しく、歴史的にも高い価値があるとのことで国の史跡に指定された。枚方市内では百済寺跡、牧野車塚古墳、禁野車塚古墳に続く4番目の国史跡となっている。ついこの3~4年前までは一面が田圃や畑だったが遺構の発掘作業もほぼ終わり?一帯が広々とした芝生の史跡公園に生まれ変わろうとしていた。 ここは、1854年、外国船が大阪湾に現れたという経緯もあり、文久3年(1863年)京都守護職である会津藩主松平容保は、外国船が淀川をさかのぼって京都に攻め込んでこないように淀川の両岸に台場を建築することを建白し、勝海舟が奉行となって建設を始めた。しかし、実際には長州藩などの反幕府側の人物や過激派を京に入れさせないための関門であり、要塞であった。淀川右岸には高浜台場、少し奥に梶原台場が造られ、左岸の楠葉台場は慶応元年(1865年)に完成した。南側から攻め上ってくる船や軍に向けて造られているため、南側のみが稜堡式(大砲を主要防御武器として設計した城で、多数の大砲が死角を補い合うように造られる。)の形式となっていた。結果的には、慶応4年(1868年)1月27日に勃発した鳥羽・伏見の戦いでは、新政府に北側から入ってこられ、北から攻められた場合を想定しておらず、防御陣地としては役に立たなかった。明治時代になり、付近は荒れ果ててしまっていたが、やがて南側の堀のみをのこし、土塁は潰され、他の堀は埋め立てられて田畑となり、1910年(明治43年)には京阪電気鉄道が開業し、遺構の西側は完全に潰された。 上の写真は山崎方面を望む。
2016年10月23日日曜日
「げんき~」Gの芸能ボランティア
今回、枚方市釈尊寺のグリンタウン集会所で地区老人会に参加の皆さん約30名(内男性4名)を対象に「げんき~」Gによる芸能ボランティアを行った。
今回、メンバーの参加が少なく4名で行った。 出し物はいつもの歌体操(4曲)→新舞踊(2曲)→「南京玉すだれ」→(新)「皿回し」→踊り「どじょうすくい」→踊り「おてもやん」の約50分の演技ボランティアだった。参加者の皆さんは元気そうな人たちばかりで、それなりに楽しいひと時を過ごしてもらった感じでよかった。 (*゚▽゚*)
今回、「げんき~」Gの出し物に新しい「皿回し」が加わってより充実してきたが、グループを結成して約6年にもなると体調を崩されている人も出て参加するメンバーも少なく、いつまで続くのか少し心配だ。
今回、メンバーの参加が少なく4名で行った。 出し物はいつもの歌体操(4曲)→新舞踊(2曲)→「南京玉すだれ」→(新)「皿回し」→踊り「どじょうすくい」→踊り「おてもやん」の約50分の演技ボランティアだった。参加者の皆さんは元気そうな人たちばかりで、それなりに楽しいひと時を過ごしてもらった感じでよかった。 (*゚▽゚*)
今回、「げんき~」Gの出し物に新しい「皿回し」が加わってより充実してきたが、グループを結成して約6年にもなると体調を崩されている人も出て参加するメンバーも少なく、いつまで続くのか少し心配だ。
2016年10月18日火曜日
「下鴨神社」参拝


世界文化遺産「賀茂御粗神社(かもみおやじんじゃ)」(下鴨神社)本殿に参拝して、非公開の東御本宮・西御本宮、大炊殿、葵の庭、三井神社、御車舎などを見学した。昨年4月、式年遷宮が行われたこともあって、東御本宮・西御本宮(国宝)共に大変綺麗な本宮になっていたし、神聖なところに入れて心が和み落ち着いた。大炊殿(重要文化財、下の写真の右上))では神饌の煮炊き、調理を行う台所で、昔のままの状態でみることが出来た。また、ここから見える庭は双葉葵が自生し、「葵の庭」「カリンの庭」と呼ばれて、カリンの実も落ちていて趣のあるよい庭だった。下鴨神社の正式名称を「賀茂御祖神社」という。京都を流れる鴨川と高野川に挟まれた三角地帯に位置する。御祭神の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は古代の京都山城を開かれた神さまで西御本宮。玉依媛命(たまよりひめのみこと)は賀茂建角身命のお子さまで東御本宮にそれぞれ祀られている。 下鴨神社の歴史は古く平安京が造営される遙か以前から神聖な場所だった。例えば、崇神天皇七年(紀元前90年頃)に神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録も残っている。平安京の造営に当たって、下鴨神社で造営祈願が行われ以来、国民の平安をご祈願する神社と定められた。 玉依媛命のお子さん「賀茂別雷大神」は上賀茂神社の御祭神で、下鴨神社と共に賀茂神社と総称され、京都三大祭りの一つ葵祭(賀茂祭)が両社で催されている。
鴨社資料館秀穗舎
平成28年度秋期京都非公開文化財「特別公開」が28日から11月27日まで21箇所で行われるが、上賀茂神社と下鴨神社だけが昨日(17日)より早く始まった。先般上賀茂神社は特別拝観したので、今回下鴨神社に行った。
参道の入口にある第34回式年遷宮奉祝事業の一環として、下鴨神社の学問所で絵師だった浅田家の旧邸を改修した鴨社資料館「秀穂舎(しゅうすいしゃ)」が10月1日に開館していたので入館してみた。神社に代々仕えた神職の家柄である社家はかつて同神社周辺に数多くあったが、現在は2軒だけが残る。中でも浅田家旧邸は江戸時代中期の全国でも数少ない伝統的社家建築で木造2階建て延べ90平方メートル。その保存と継承を目的に、旧社家の日常生活を復元した常設展示や、下鴨神社に縁のある人物や品を紹介する企画展などが開催されている。が、今回は開館記念特別企画展として「鴨長明資料展」として、「方丈記」の作者として知られる長明が使っていたとされるすずりを75年ぶりに公開のほか、狩野益信による江戸時代前期の肖像の掛け軸(初公開)など、長明ゆかりの資料30点が展示されていた。鴨長明のことが改めてよくわかった。
下鴨神社の糺の森にある「河合神社」は、鴨長明ゆかりの神社であり参拝した。鴨長明は、この河合神社の神官の家に1155年に生まれたが、さまざまな事情によりこの重職を継ぐことができなかった。このことから強い厭世感を抱くようになり、世の無常と人生のはかなさを随筆として著わした『方丈記』(行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。の書き出し)を書くにいたったといわれている。大原から方々を転々として、58歳(1208年)のころに現在の京都市伏見区日野町に落ち着き、栖(すみか)としたのが「方丈」で、ここで『方丈記』を仕上げたとのこと。1216年6月8日(丁度800年前)、62歳で歿しがこの「方丈」は、移動に便利なようにすべて組立式になっていて、広さは1丈(約3m)四方、約2・73坪、畳約5帖半程度、間口、奥行とも1丈四方というところから「方丈」の名がある。この「方丈の庵」が河合神社にて公開されていた。(下の写真の右下)
参道の入口にある第34回式年遷宮奉祝事業の一環として、下鴨神社の学問所で絵師だった浅田家の旧邸を改修した鴨社資料館「秀穂舎(しゅうすいしゃ)」が10月1日に開館していたので入館してみた。神社に代々仕えた神職の家柄である社家はかつて同神社周辺に数多くあったが、現在は2軒だけが残る。中でも浅田家旧邸は江戸時代中期の全国でも数少ない伝統的社家建築で木造2階建て延べ90平方メートル。その保存と継承を目的に、旧社家の日常生活を復元した常設展示や、下鴨神社に縁のある人物や品を紹介する企画展などが開催されている。が、今回は開館記念特別企画展として「鴨長明資料展」として、「方丈記」の作者として知られる長明が使っていたとされるすずりを75年ぶりに公開のほか、狩野益信による江戸時代前期の肖像の掛け軸(初公開)など、長明ゆかりの資料30点が展示されていた。鴨長明のことが改めてよくわかった。
下鴨神社の糺の森にある「河合神社」は、鴨長明ゆかりの神社であり参拝した。鴨長明は、この河合神社の神官の家に1155年に生まれたが、さまざまな事情によりこの重職を継ぐことができなかった。このことから強い厭世感を抱くようになり、世の無常と人生のはかなさを随筆として著わした『方丈記』(行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。の書き出し)を書くにいたったといわれている。大原から方々を転々として、58歳(1208年)のころに現在の京都市伏見区日野町に落ち着き、栖(すみか)としたのが「方丈」で、ここで『方丈記』を仕上げたとのこと。1216年6月8日(丁度800年前)、62歳で歿しがこの「方丈」は、移動に便利なようにすべて組立式になっていて、広さは1丈(約3m)四方、約2・73坪、畳約5帖半程度、間口、奥行とも1丈四方というところから「方丈」の名がある。この「方丈の庵」が河合神社にて公開されていた。(下の写真の右下)
2016年10月9日日曜日
大津祭り


「大津祭り」を初めて知人と一緒に出かけて見物した。浜大津駅10時半頃に着き、徒歩約5分の浜通りの国道161線側に各曳山町から曳山が引かれて合流(集結)する様子、中町通りの商店街を引かれる曳山や曳山展示館などをみることが出来た。昼食後は中央通りにある集結した13基の曳山展示場から祭本部前の観覧席を順々にコンチキチンの囃子と「からくり」を演じながら行く曳山や2基の神輿行列をもみて楽しむことが出来た。朝日新聞の朝刊によると3月に祭りが国の重要無形民俗文化財に指定されたことを記念して、神輿行列が半世紀ぶりに行われたとのこと、そのためかよく分からないが神輿が輝く金色ではなくくすんだ金色だったことがなんとなく理解できた。その後、「天孫神社」に参拝したが、大津であり広大な敷地にこんもりとした森の中に立派な本殿があると思っていたが、意外にこじんまりとした境内の歴史のある神社だった。その境内に祭りのため露店がぎっしりと並び、人出も多く参拝するのにも一苦労した。
この大津祭は、市内の中央部に位置する京町三丁目の天孫(四宮)神社の祭礼で、長浜曳山祭らと並んで湖国三大祭の一つに数えられている。この本祭には13の曳山町から13基の曳山が出され、終日コンチキチンの囃子と見事な「からくり」を演じながら市内を巡行する。いずれも江戸時代に製作された華麗な曳山は、まさに「動く文化財」の様相を呈しているといってよい。からくりは大津祭の特色の一つで、各曳山町や町の辻々約28ヶ所で実演される。五色布の采配棒の合図によって、からくり囃子に替わり、曳山屋台で精緻なからくりが披露される。いずれも曳山の名称にちなんだ所作の巧妙さと発想に富んだものが多く、観る人を楽しませてくれる。また、からくりと並んで曳山の装飾も祭礼の大きな見所の1つとなっている。装飾の代表的な幕類には、見送幕、胴幕(胴懸)、水引幕などがある。それらは各曳山町が競って豪華なものを誂えたり購入をしたものとのこと。
2016年10月7日金曜日
うめきたガーデン
JR大阪駅北側、都会の真ん中に花と緑があふれる「うめきたガーデン」(庭園)が7日に誕生。 国内外で活躍する庭園デザイナー、石原和幸氏が手がける2つの庭や10万株の花畑、植物の壁で囲まれた小径など、さまざまな花と緑が楽しめる庭園で、来年3月20日まで開催される。
庭園デザイナーの石原和幸氏は、サイトによれば22歳で生け花の『池坊』に入門。以来、花と緑に魅了され路上販売から店舗、そして庭造りをスタート。その後、苔を使った庭で独自の世界観が国際ガーデニングショーの最高峰である「英国チェルシーフラワーショー」で高く評価され、 2006年から3年連続金メダル受賞、 2012年から5年連続でアーティザンガーデン部門で金メダルを獲得。さらに部門内1位に贈られるベストガーデン賞とのダブル受賞も果たした。 2016年大会では全出展者から選出される最高賞のプレジデント賞を受賞した、 とのこと。庭園デザイナーとしては有名みたい。
初日であったので、多くの入場者や関係者、TV放送局の取材などで賑わっていた。夕方のNHKニュースでも状況が放送されていた。大阪駅の北側で利便性も大変良いので、梅田に行ったついでに立ち寄るのもよいだろう!
庭園デザイナーの石原和幸氏は、サイトによれば22歳で生け花の『池坊』に入門。以来、花と緑に魅了され路上販売から店舗、そして庭造りをスタート。その後、苔を使った庭で独自の世界観が国際ガーデニングショーの最高峰である「英国チェルシーフラワーショー」で高く評価され、 2006年から3年連続金メダル受賞、 2012年から5年連続でアーティザンガーデン部門で金メダルを獲得。さらに部門内1位に贈られるベストガーデン賞とのダブル受賞も果たした。 2016年大会では全出展者から選出される最高賞のプレジデント賞を受賞した、 とのこと。庭園デザイナーとしては有名みたい。
初日であったので、多くの入場者や関係者、TV放送局の取材などで賑わっていた。夕方のNHKニュースでも状況が放送されていた。大阪駅の北側で利便性も大変良いので、梅田に行ったついでに立ち寄るのもよいだろう!
2016年10月4日火曜日
上賀茂神社に参拝
旧三井家下鴨別邸を出て下鴨神社の横を通り、世界文化遺産である加茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)=上賀茂神社にウオーキング(約5km)しながら行った。
初めての参拝かと思っていたが、到着すると見たことのある風景が目に飛び込んできて、随分昔に参拝したことを思い出した。
本殿に参拝後に「国宝・本殿特別参拝とご神宝拝観」(拝観料500円)をした。ここで、神職より加茂別雷神社(上賀茂神社)の由緒・歴史、加茂祭(葵祭)の起源及び変遷などの話があって、簡単なお祓いがあった。そして神職の案内で普段入ることの出来ない神域へ、千年の時の流れを越えて、古の姿そのままの国宝である「本殿・権殿」の前にたたずみ、改めて参拝した。心も癒され安らぎを覚えた。神宝のある庁屋では、神社に参拝する様子の屏風や絵画、神職の衣装や織田信長・明智光秀・豊臣秀吉から上賀茂神社宛の書面なども展示されていた。
帰りは市バスで河原町三条で下車して京阪三条から帰宅したが、運動も十分出来たし京都で最も古い社での参拝も出来てよい一日だった(´▽`)
初めての参拝かと思っていたが、到着すると見たことのある風景が目に飛び込んできて、随分昔に参拝したことを思い出した。
本殿に参拝後に「国宝・本殿特別参拝とご神宝拝観」(拝観料500円)をした。ここで、神職より加茂別雷神社(上賀茂神社)の由緒・歴史、加茂祭(葵祭)の起源及び変遷などの話があって、簡単なお祓いがあった。そして神職の案内で普段入ることの出来ない神域へ、千年の時の流れを越えて、古の姿そのままの国宝である「本殿・権殿」の前にたたずみ、改めて参拝した。心も癒され安らぎを覚えた。神宝のある庁屋では、神社に参拝する様子の屏風や絵画、神職の衣装や織田信長・明智光秀・豊臣秀吉から上賀茂神社宛の書面なども展示されていた。
帰りは市バスで河原町三条で下車して京阪三条から帰宅したが、運動も十分出来たし京都で最も古い社での参拝も出来てよい一日だった(´▽`)
旧三井家下鴨別邸
重要文化財・旧三井家下鴨別邸(京都市左京区)の一般公開が1日から始まり出かけた。
豪商で財閥だったこの旧三井家の別邸は、下鴨神社の南のこんもりとした森の中にある。1925(大正14)年に建築された後、1949(昭和24)年に国に譲渡され、京都家裁所長宿舎に使われていた。2011年に重文に指定され、管理することになった京都市が翌年から保存修理を進めてきて、初めての一般公開となった。
この別邸の主屋は木屋町三条上ルにあった明治期の建物を、この地にあった三井家の祖霊社である顕名霊社(あきなれいしゃ)の参拝の休憩所として移築されたもの。現在その顕名霊社は昭和期に東京に移されているのでない。
今回の一般公開は主屋の1階部分と庭園のみで、望楼など2~3階は特別公開の11月19日~12月4日に見学ができる。通常日は望楼の2~3階が有料で利用できることになっている。
今回、池やこけが配置された庭園と座敷などが一体となった開放的な造りを堪能。玄関棟では、書院造りを基調としつつ天井を高くする洋式居室をも味わうことが出来た。 また、三井家が藤原道長の六男長家の五代孫右馬之介信生が近江国に土着し、武士になったのが三井家の始まりである。そして織田信長の上洛によって六角氏とともに三井家は逃亡し、伊勢国松坂に居住するようになったとされる。その後、武士を廃業して松坂に質屋兼酒屋を開き、商人としての三井家が創業されたとのことなど三井家の系譜などを学ぶことが出来たヽ(;▽;)ノ
豪商で財閥だったこの旧三井家の別邸は、下鴨神社の南のこんもりとした森の中にある。1925(大正14)年に建築された後、1949(昭和24)年に国に譲渡され、京都家裁所長宿舎に使われていた。2011年に重文に指定され、管理することになった京都市が翌年から保存修理を進めてきて、初めての一般公開となった。
この別邸の主屋は木屋町三条上ルにあった明治期の建物を、この地にあった三井家の祖霊社である顕名霊社(あきなれいしゃ)の参拝の休憩所として移築されたもの。現在その顕名霊社は昭和期に東京に移されているのでない。
今回の一般公開は主屋の1階部分と庭園のみで、望楼など2~3階は特別公開の11月19日~12月4日に見学ができる。通常日は望楼の2~3階が有料で利用できることになっている。
今回、池やこけが配置された庭園と座敷などが一体となった開放的な造りを堪能。玄関棟では、書院造りを基調としつつ天井を高くする洋式居室をも味わうことが出来た。 また、三井家が藤原道長の六男長家の五代孫右馬之介信生が近江国に土着し、武士になったのが三井家の始まりである。そして織田信長の上洛によって六角氏とともに三井家は逃亡し、伊勢国松坂に居住するようになったとされる。その後、武士を廃業して松坂に質屋兼酒屋を開き、商人としての三井家が創業されたとのことなど三井家の系譜などを学ぶことが出来たヽ(;▽;)ノ
2016年9月25日日曜日
京都迎賓館
京都迎賓館の参観に、ネット申込みができない状態のため当日申込みで出かけた。迎賓館西門に10時5分前に着いたがすでに50名程の列が出来ていた。整理券が配布される11時頃には100名程?の長蛇の列になっていた。11時前から12時15分、30分、45分、13時15分・・・の当日申込のガイドツアー(定員30名)の整理券が配布され、12時30分ツアーの整理券を得ることが出来た。約1時間があり隣の一般公開されている京都御所に行って時間を潰した。
12時30分ツアーに全員(30名)が揃った時点で、係員(女性ガイド)の案内で、地下駐車場にて荷物検査・身体セキュリティーチェックが行われ、自動販売機で入場料1500円支払う。係員から事前の注意説明があり12時30分に出発し地下から地上に出て、正門→正面玄関→聚楽の間→夕映えの間→藤の間→桐の間→廊橋・庭園の概要説明を受けながら約60分の見学をした。
この京都迎賓館は日本の歴史、文化を象徴する京都で、海外からの賓客を心をこめて迎え、日本への理解と友好を深めてもらうことを目的に2005年(平成17年)4月に建設された。歴史的景観や周辺の自然環境との調和を図るため、日本の伝統的な住居である入母屋屋根と数寄屋造りの外観をいかし、築地塀を巡らせた品格のある和風の佇まいを創出している。建設に当たっては、数寄屋大工、左官、作庭、截金(きりかね)など、数多くの伝統的技能を活用し、京都を代表する伝統技能者の技が生かされている。また、調度品についても西陣織や蒔絵(まきえ)、漆などの伝統的技能を活用した家具が配置されている。
今回、入母屋屋根と数寄屋造りの外観や聚楽の間、夕映えの間、藤の間、桐の間の和室などで伝統的技能者によって和の技が生かされた多くの建造物をみることが出来た。
12時30分ツアーに全員(30名)が揃った時点で、係員(女性ガイド)の案内で、地下駐車場にて荷物検査・身体セキュリティーチェックが行われ、自動販売機で入場料1500円支払う。係員から事前の注意説明があり12時30分に出発し地下から地上に出て、正門→正面玄関→聚楽の間→夕映えの間→藤の間→桐の間→廊橋・庭園の概要説明を受けながら約60分の見学をした。
この京都迎賓館は日本の歴史、文化を象徴する京都で、海外からの賓客を心をこめて迎え、日本への理解と友好を深めてもらうことを目的に2005年(平成17年)4月に建設された。歴史的景観や周辺の自然環境との調和を図るため、日本の伝統的な住居である入母屋屋根と数寄屋造りの外観をいかし、築地塀を巡らせた品格のある和風の佇まいを創出している。建設に当たっては、数寄屋大工、左官、作庭、截金(きりかね)など、数多くの伝統的技能を活用し、京都を代表する伝統技能者の技が生かされている。また、調度品についても西陣織や蒔絵(まきえ)、漆などの伝統的技能を活用した家具が配置されている。
今回、入母屋屋根と数寄屋造りの外観や聚楽の間、夕映えの間、藤の間、桐の間の和室などで伝統的技能者によって和の技が生かされた多くの建造物をみることが出来た。
2016年9月24日土曜日
映画「ハドソン川の奇跡」
映画「ハドソン川の奇跡」が一般公開された。あらすじは2009年1月15日、150名の乗客、5名の乗員の155名を乗せたUSエアウェイズ1549便は、シアトルに向かいニューヨークを離陸した。しかし、160万人が住む大都会・マンハッタンの上空850メートルで、数羽の鳥がエンジンに吸い込まれ突如全エンジンが完全停止。制御不能となるトラブルが発生。機長は、ベテラン操縦士のチェズレイ・サリー・サレンバーガー機長(トム・ハンクス)が制御不能となった機体の墜落までのリミットはわずかに208秒しかない中で、機長は機体の安定を図りながら、着陸の方法を模索し、このままでは乗客の命はおろか、大都会ニューヨークの街中に墜落する危険性がある中、機長は決断をする。「ハドソン川に着水するぞ!」究極の状況の中、機長・サリーは、見事難易度の高いハドソン川への着水を成功させる。乗客155人は全員生存・救出され、サリーは一躍国民的英雄になる。が、機長の「究極の決断」に思わぬ疑惑がかかり、容疑者になり国家運輸安全委員会(事故調査委員会)の厳しい追及が行われる。飲酒、睡眠不足、健康状態、家庭不和などの追求、本当にハドソン川への不時着以外の選択肢はなかったのか?その判断は、乗客たちを命の危機にさらす乱暴な判断ではなかったか?などと問い詰められる。容疑者になってしまったのは、事故からわずか208秒間のことだった。この208秒がコンピュータによるシュミレーションやボイスレコーダーから、機長の冷静な判断と無事着水の技術力などが明らかになり、また副操縦士スカイルズの存在や客室乗務員の存在で、手順通り冷静に事態の対処にあたったことも全員生存に大きく貢献した。そして管制室や救助にあたった水上タクシーと沿岸警備隊、観光ヘリの存在もあり、それらすべてが重なり合ったのが「ハドソン川の奇跡」となった。 厳しい追求の中で機長の決して揺らぐことのない人間性が描き出された映画だった。
2016年9月18日日曜日
京都「仙洞御所」参観
前から京都の仙洞御所を参観したく、4日前にネットを調べると、この18日(日)11時から4名申し込み可能になっており早速申し込みして出かけた。 自宅を出るときはどしゃ降りであったが、京阪神宮丸太町駅に着いた頃には雨もやみ助かった。10時40分過ぎに着くと当日券の受付が始まっていて20名程並んで手続きをしていた。待合所に行くと自分一人で、いつも40~50名の参観者があるらしいが、予約の11時は以外に少なく、たったの10名。11時から男性ガイドによって12時まで説明しながら庭園を案内してもらった。参観コースの概要は、大宮御所の車寄せ→御常御殿の南庭→北池を一回(六枚橋→紅葉橋)→南池を一回り(八つ橋)→醒花亭→又新亭だった。雨がしとしと降る中で庭園のもみじや木々が青々として、また苔も大変綺麗でさすがに素晴らしい庭園だった。秋は紅葉で特によいだろうから機会があれば、また参観したい。ただ、ネットの申し込みは申し込み人員が少数であり取れそうにない状況のようだ。当日券を朝早く並んで取るしかないと思う。
この仙洞御所とは、退位した天皇(上皇・法皇)の御所。仙洞とは本来仙人の住み処をいう。そこから転じて退位した天皇(上皇・法皇)の御所をいい、さらに転じて上皇・法皇の異称としても使われた。 現在、京都御所の南東に仙洞御所が位置している。これは1627年に後水尾上皇のために造営されたもので、正式名称は桜町殿という。東部には広い池を中心に庭園が広がっている。初め小堀遠州によって築庭されたが、のちに後水尾上皇の意向により大きく改造されている。仙洞御所の建築群は1854年の火災後再建されず、現在では庭園のみが残っており、1867年以降には隣りの御常御殿が残る大宮御所に組みいれられ、皇室の京都における邸宅として整備されて今日に至っている。
この仙洞御所とは、退位した天皇(上皇・法皇)の御所。仙洞とは本来仙人の住み処をいう。そこから転じて退位した天皇(上皇・法皇)の御所をいい、さらに転じて上皇・法皇の異称としても使われた。 現在、京都御所の南東に仙洞御所が位置している。これは1627年に後水尾上皇のために造営されたもので、正式名称は桜町殿という。東部には広い池を中心に庭園が広がっている。初め小堀遠州によって築庭されたが、のちに後水尾上皇の意向により大きく改造されている。仙洞御所の建築群は1854年の火災後再建されず、現在では庭園のみが残っており、1867年以降には隣りの御常御殿が残る大宮御所に組みいれられ、皇室の京都における邸宅として整備されて今日に至っている。
2016年9月17日土曜日
特別展「星野道夫の旅」
没後20年の特別展「星野道夫の旅」(写真展)が高島屋大阪店7階グランドホールで開催されたので見てきた。
アラスカに魅せられ、かの地を棲家にして壮大な自然の世界を描写した、たぐいまれな写真家・故星野道夫(1952~1996年)。彼がカムチャツカの地で、取材中に不慮の死を遂げてから2016年8月で20年となり、残された多くの写真や文章は、いまだに多くの人々の心を魅了し続けている。そこで、今回は星野道夫が駆け抜けた、幾多の道をひもとく未発表作を含むおよそ250点の写真をはじめ、自筆の文章や手紙、撮影に使用したカメラなどを展示するとともに、愛用したカヤック、スノーシュー、毛皮のパーカー(アノラック)も展示されていた。アラスカの大自然と動物たちの写真は、素晴らしく見ごたえのあるもで感動した。
1996年8月8日ヒグマに襲われて不慮の死を遂げた事件の概要は、関連サイトに掲載されていた。それはTBSの『どうぶつ奇想天外!』の放送番組の取材目的で、「ヒグマと鮭」を題材にした写真を撮影するためTBSのクルーと共にロシアのカムチャッカ半島南部のクリル湖畔(ロシアで熊が最も多いとこ)へとやってきた。付近には身の安全を確保できる小屋や「鮭観察タワー」などの宿泊施設があったものの、彼は敢えて湖畔のほとりにテントを設置し、そこへ寝泊りすることを選択。この季節は7月。「この時期は、サケが川を上って食べ物が豊富だから、ヒグマは襲ってこない」との見識に基づいた判断だった。体長2m超・体重250 kgの巨大な額に傷を負ったヒグマが到着してから2日後の夜、宿泊用の小屋に備え付けてある食糧庫によじ登り、飛び跳ねて荒らしていた。 このヒグマ、数日前にも食糧庫を荒しており、どうやら空腹のようだった。それはこの年、サケの遡上が例年よりも遅れていたためらしい。さらに、この額に傷を負ったヒグマが、地元テレビ局の社長によって餌付けされていたため、人間への警戒心が薄かったとも考えられている。しかしこの時、そんなことは分かっていなかった。「たまたまだろう」と思ったのか、星野は再三に渡るガイドの忠告を聞き入れず、テントでの宿泊を続行。そして、2週間が経過したある日の深夜に悲劇は起こった。キャンプ場に突如として響き渡る絶叫。その声がすぐに星野のものだと分かったTBSスタッフは、急いで小屋から出て懐中電灯で照らすと額に傷のある例のヒグマが彼を咥えて、悠々と森の中へ戻っていく姿が見えた。テントはひしゃげてポール(支柱)は折れ、星野の寝袋は切り裂かれていた。ガイドが無線で救助を要請し、ヘリコプターで到着した捜索隊は上空からヒグマを捜索し、発見すると射殺した。星野の遺体は森の中でヒグマに喰い荒らされた姿で発見されたという。アラスカでグリズリーの写真を幾度も撮影してきた実績のある、いわばその道のプロフェッショナル。当然、熊の習性などは熟知していたはずなのになぜ、このような悲劇が起こってしまったのか謎になっている。2016年9月15日木曜日
酔芙蓉の寺「大乗寺」
一週間程前に京都山科の旧東海道沿いの山裾にある「酔芙蓉の寺」として知られる小さなお寺「大乗寺」の酔芙蓉が見頃になっているとNHKが放送したので、去年とは大分早いと思いながら訪れてみた。やはりまだチラホラと咲いている程度で放送とは程遠い状況だった。住職(婦人)に聞くとNHKが撮影した時はある程度咲いていて、それをすごく咲いているようにうまく撮影していて、あとで放送をみて感心したとの話があった。ということで、見頃は今月末頃にならなとダメという感じだった。

ここの酔芙蓉は約1300本が小さな本堂を囲むように植えられている。 芙蓉といえば木芙蓉のことを指し、朝に咲き、夕方には萎んでしまう一日花である。早朝に開花したときには本来の淡紅色、夕方になるにしたがって、その色は次第に濃くなり、そして萎んでいく。 一方、酔芙蓉は、朝のうちは純白、午後には淡い紅色、夕方から夜にかけては紅色になる。酒を飲むと顔色がだんだんと赤みを帯びるのに似ていることからこの名がついたといわれている。
芙蓉は、全国各地の庭先や公園など、どこででも目にすることができるが、群生している名所となると寺の境内が多いようである。一方、酔芙蓉となるとなかなか群生しているところは少なく、千本以上あるこの大乗寺は珍しい存在であるとのこと。 今回、残念ながら早すぎた感じだが、機会があれば今月末に再度訪れたいものだ。

ここの酔芙蓉は約1300本が小さな本堂を囲むように植えられている。 芙蓉といえば木芙蓉のことを指し、朝に咲き、夕方には萎んでしまう一日花である。早朝に開花したときには本来の淡紅色、夕方になるにしたがって、その色は次第に濃くなり、そして萎んでいく。 一方、酔芙蓉は、朝のうちは純白、午後には淡い紅色、夕方から夜にかけては紅色になる。酒を飲むと顔色がだんだんと赤みを帯びるのに似ていることからこの名がついたといわれている。芙蓉は、全国各地の庭先や公園など、どこででも目にすることができるが、群生している名所となると寺の境内が多いようである。一方、酔芙蓉となるとなかなか群生しているところは少なく、千本以上あるこの大乗寺は珍しい存在であるとのこと。 今回、残念ながら早すぎた感じだが、機会があれば今月末に再度訪れたいものだ。
2016年9月10日土曜日
「超高速!参勤交代リターンズ」
2014年7月に公開された「超高速参勤交代」が大ヒットし、次作として本日公開された。前作の「超高速参勤交代」がよかったので、今回も見に出かけた。
あらすじは、前作で見事江戸への参勤を成し遂げた磐城国(現在の福島県いわき市)の湯長谷藩だったが、そもそも参勤交代とは、〈参勤〉だけでなく、藩に帰る〈交代〉まで終えてこそ完結するもの。湯長谷藩の参勤交代は、まだ終わっていなかった・・・!藩主・内藤政醇(まさあつ:佐々木蔵之介)率いる一行は故郷を目指し、ゆっくり江戸を出発したが、その道中、湯長谷で一揆が起きたとの知らせが入る。2日以内に一揆を収めなければ、藩のお取り潰しは免れない。彼らは行きの倍の速さで帰るはめに。川でおぼれ、お尋ね者になり、謎の刺客に襲われ、命からがら湯長谷にたどり着くが、すでに城は乗っ取られた後だった。帰ってみると田畑は荒らされ、家族は城内で人質になり、ひどい状態だった。そこで、まず策略でうまく城内の連中を外に出し、城を奪い返すが、悪家老である松平信祝(のぶとき)が1000人を連れてやってくる。それに立ち向かい農民とともに大ピンチを切り抜ける。ここでやっと交代が終わって農民とともに喜び合うというもの。
この映画の滋賀県のロケ地は高島市(安曇川町)と彦根市(彦根城)で、城が乗っ取られ戦いを挑む場面は高島市安曇川町で、また爆破やスモークなど派手なシーン、湯長谷藩に帰る途中の「大沼宿」もここで撮られた。帰路に刺客に襲われるシーンや、城内での戦いのシーンは彦根城で撮影された、とのこと。 前回と同じように滋賀のロケ地が使われたようだ。 前回と同様に困難を奇策で切り抜けることなど面白い映画だった。
あらすじは、前作で見事江戸への参勤を成し遂げた磐城国(現在の福島県いわき市)の湯長谷藩だったが、そもそも参勤交代とは、〈参勤〉だけでなく、藩に帰る〈交代〉まで終えてこそ完結するもの。湯長谷藩の参勤交代は、まだ終わっていなかった・・・!藩主・内藤政醇(まさあつ:佐々木蔵之介)率いる一行は故郷を目指し、ゆっくり江戸を出発したが、その道中、湯長谷で一揆が起きたとの知らせが入る。2日以内に一揆を収めなければ、藩のお取り潰しは免れない。彼らは行きの倍の速さで帰るはめに。川でおぼれ、お尋ね者になり、謎の刺客に襲われ、命からがら湯長谷にたどり着くが、すでに城は乗っ取られた後だった。帰ってみると田畑は荒らされ、家族は城内で人質になり、ひどい状態だった。そこで、まず策略でうまく城内の連中を外に出し、城を奪い返すが、悪家老である松平信祝(のぶとき)が1000人を連れてやってくる。それに立ち向かい農民とともに大ピンチを切り抜ける。ここでやっと交代が終わって農民とともに喜び合うというもの。
この映画の滋賀県のロケ地は高島市(安曇川町)と彦根市(彦根城)で、城が乗っ取られ戦いを挑む場面は高島市安曇川町で、また爆破やスモークなど派手なシーン、湯長谷藩に帰る途中の「大沼宿」もここで撮られた。帰路に刺客に襲われるシーンや、城内での戦いのシーンは彦根城で撮影された、とのこと。 前回と同じように滋賀のロケ地が使われたようだ。 前回と同様に困難を奇策で切り抜けることなど面白い映画だった。
2016年9月8日木曜日
神戸三宮「游の会」作品展


親友から誘いがあり、神戸市役所の市民ギャラリーで「游の会」作品展を見に親友3名で出かけた。この「游の会」作品展には油絵22点、水彩画12点、水彩・パステル、ペン10点、ハガキ絵10点、扇子絵8点などと旅のスケッチブック数冊が展示されていた。広々とした会場にこれらの作品が展示されていて、ゆっくりとみて楽しむことが出来た。(上の写真)
この会の講師の旅のスケッチブックをみると海外の教会、建築物、風景、植物、花、人物などがスケッチされて、これらは約5分程度で仕上げるとのこと、すごいなぁ~と感心、その程度で描けるようになれないかと思うが、努力してもダメかなぁ~~。
その後、市役所24階にある展望ロビーから東は六甲アイランドやHAT神戸の街並みが、南からは東遊園地からポートアイランド(中の写真)、西はハーバーランドの街並みなどが見ることができた。また、反対方向(北)からは、三宮から北野の街並みや六甲山系の山並みまでが眺望できて楽しむことが出来た。昼食は神戸国際会館9Fの「維新號點心茶室」にてランチ「點心茶室セット(1600円)」で美味しく食した。
その後、神戸港遊覧船(オーシャンプリンス)で約45分の久しぶりの神戸港内クルーズを楽しんだ。(下の写真が乗船した神戸港遊覧船:オーシャンプリンス)
2016年9月7日水曜日
京都黄檗宗「石峰寺」
5日付け朝日新聞に江戸時代の絵師、伊藤若冲(1716~1800)ゆかりの黄檗宗「石峰寺」を訪ねて!という記事が掲載された。少し興味もあり京阪深草駅下車して徒歩約10分にあるこの黄檗宗「石峰寺」を訪ねてみた。(上の写真)
命日の9月10日若冲忌に合わせて、「石峰寺」が所蔵している掛け軸や版画など、若冲の作品を一般公開する秋の特別展示会が、9月1日から若冲忌の9月10日まで行われていて、うまい具合に若冲の掛け軸(動植物を描いた彩色画)を鑑賞することが出来た。また今、若冲ゆかりの相国寺(承天美術館)でも生誕300年記念伊藤若冲展が行なわれている。機会があればみに行きたいものだ。
斗米庵とも号した伊藤若冲は、五百羅漢(羅漢とは人々から尊敬・布施をうける資格のある人の意で,悟りをひらいた高僧を指す)はもちろんのこと、動植綵絵が代表作の一つとして知られる、江戸時代中期の京都で活躍した日本画家。元は錦小路の青果問屋の主で、30代より禅に親しみ、40歳の時に隠居したのちは画作に専念し、独特な作風で数多くの作品を生み出している。 晩年には「石峰寺」門前に庵を結び、85歳でその生涯を終えた。石峰寺の境内には、斗米庵若冲居士墓とある若沖の墓がある。(下の写真) 本堂の裏手の竹林にある五百羅漢は、伊藤若冲が60才になった時、五百羅漢を刻むことを思い立ち、五百体にも及ぶ下絵を描き、石職人に頼み、10年をかけて五百羅漢を配したとのこと。当時は千体以上のもの石蔵が配されていた。現在では五百数十体の石蔵で長い年月を物語るように丸くなり、苔が生え風化に伴い表情や姿態に一段と趣を深めているそうだ。(中の写真)
今回、はじめて画家伊藤若冲という人や、若冲ゆかりの「石峰寺」のことが勉強になった。
命日の9月10日若冲忌に合わせて、「石峰寺」が所蔵している掛け軸や版画など、若冲の作品を一般公開する秋の特別展示会が、9月1日から若冲忌の9月10日まで行われていて、うまい具合に若冲の掛け軸(動植物を描いた彩色画)を鑑賞することが出来た。また今、若冲ゆかりの相国寺(承天美術館)でも生誕300年記念伊藤若冲展が行なわれている。機会があればみに行きたいものだ。
斗米庵とも号した伊藤若冲は、五百羅漢(羅漢とは人々から尊敬・布施をうける資格のある人の意で,悟りをひらいた高僧を指す)はもちろんのこと、動植綵絵が代表作の一つとして知られる、江戸時代中期の京都で活躍した日本画家。元は錦小路の青果問屋の主で、30代より禅に親しみ、40歳の時に隠居したのちは画作に専念し、独特な作風で数多くの作品を生み出している。 晩年には「石峰寺」門前に庵を結び、85歳でその生涯を終えた。石峰寺の境内には、斗米庵若冲居士墓とある若沖の墓がある。(下の写真) 本堂の裏手の竹林にある五百羅漢は、伊藤若冲が60才になった時、五百羅漢を刻むことを思い立ち、五百体にも及ぶ下絵を描き、石職人に頼み、10年をかけて五百羅漢を配したとのこと。当時は千体以上のもの石蔵が配されていた。現在では五百数十体の石蔵で長い年月を物語るように丸くなり、苔が生え風化に伴い表情や姿態に一段と趣を深めているそうだ。(中の写真)
今回、はじめて画家伊藤若冲という人や、若冲ゆかりの「石峰寺」のことが勉強になった。
2016年9月3日土曜日
「サントリー1万人の第九」練習
今年、第34回を迎える「サントリー1万人の第九」の練習がスタートした。 本番の12月4日(日)までに6回の合唱練習、佐渡指揮者の総合レッスン、前日3日のリハーサルがある。 クラスは「森ノ宮2」(約150名)で、指導は昨年と同じく有本正人先生だった。
この「サントリー1万人の第九」は、2000年に初めて参加して以来、今回で16回目、1999年フェスティバルホールで朝日新聞120周年記念演奏会の第九に初出場して、通算で50回目(11月6日のかがわ第九含む)となる。 すごいかなぁ~?? 何となく惰性で出場している間に出場回数も上がって今日に至った。目標としている50回は今年で達成できそうだ。 まずは、今回の本番に向けて頑張ろう!!
この「サントリー1万人の第九」は、2000年に初めて参加して以来、今回で16回目、1999年フェスティバルホールで朝日新聞120周年記念演奏会の第九に初出場して、通算で50回目(11月6日のかがわ第九含む)となる。 すごいかなぁ~?? 何となく惰性で出場している間に出場回数も上がって今日に至った。目標としている50回は今年で達成できそうだ。 まずは、今回の本番に向けて頑張ろう!!
2016年8月27日土曜日
映画「後妻業の女」
大阪を主な舞台に、中高年の婚活の危うい一面をサスペンスと笑いを交えて描いた映画「後妻業の女」が、本日全国公開され朝一番(9時45分~上映)にみに出かけた。あらすじは、「武内小夜子、63歳、好きなことは読書と夜空を見上げること…わたし、尽くすタイプやと思います」結婚相談所主催のパーティで可愛らしく自己紹介する小夜子(大竹しのぶ)の魅力に男たちはイチコロだった。 実は裕福で孤独な高齢者を色香で惑わせて後妻になり、その財産を奪う「後妻業」のエースだった。 裏で手を引く結婚相談所所長の柏木(豊川悦司)のもくろみ通り、小夜子は80歳になる中瀬耕造(津川雅彦)の後妻におさまった。二人は惹かれあい幸せな夫婦生活を送っていた、はずだったが・・・、2年後耕造は亡くなり、葬式の場で耕造の娘・朋美(尾野真千子)と尚子(長谷川京子)は、小夜子から遺言公正証書を突き付けられ、小夜子が全財産を相続する事実を言い渡される。納得の行かない朋美が調査をすると、衝撃の事実が発覚。小夜子は、後妻に入り財産を奪う『後妻業の女』だったのだ。(後は省略)
主なキャスターは関西出身(豊川悦司、笑福亭鶴瓶、水川あさみ、奈良県:尾野真千子、京都:津川雅彦など)でロケも大阪各地で行われた。中之島を周遊する遊覧船で婚活パーティーの画面、通天閣の見える駐車場や大阪城のみえる喫茶店などが撮影されていた。 みものは何と言っても悪女を演じた小夜子役の大竹さんの演技や大阪弁で、さすがにうまいなぁ~と感心。また、中高年の婚活の危うい一面をサスペンスと笑いを交えて描いた映画であり、面白くてよかった。
2016年8月22日月曜日
オリンピックリオ大会閉会式
第31回オリンピック競技会リオデジャネイロ大会は2016年8月21日、ブラジル・リオデジャネイロ市のマラカナン競技場で閉会式が行われた。南米で初開催となるリオを中心に繰り広げられた17日間の祭典は、日本選手のメダル最多の41個(金12、銀8、銅21)で、日本中に大きな感動と勇気を与えて無事に幕を閉じた。次回大会は、東京で2020年7月24日から開かれる。この大会に世界3位(今回6位)のメダル数を取るとの目標とのこと、大いに期待したい。 約2年前に東京にオリンピックが決まり、我々多くの高齢者の人は何とかオリンピックまで元気に健康で長生き(目標に)してオリンピックをみたいと思われたが、我自身もそう思いで今日まで来た。さあ~~あと4年もう少しだ。何とか健康に十分留意して元気で、是非とも開会式を国立競技場に見に行きたいなぁ~~。それ以外に体操、卓球、レスリングもみたい~と思う。 頑張ろう!!
YouTubeの【NHKリオ】2020へ期待高まる!トーキョーショーをhttps://youtu.be/sk6uU8gb8PA リンク投稿。概要は「五輪閉会式で披露された2020年の東京大会プレゼンテーションをノーカットで、クリエーティブ スーパーバイザーと音楽監督は椎名林檎さん、総合演出と演舞振付はMIKIKOさん。青森大学男子新体操部のダイナミックな演技も必見!」とのこと。
YouTubeの【NHKリオ】2020へ期待高まる!トーキョーショーをhttps://youtu.be/sk6uU8gb8PA リンク投稿。概要は「五輪閉会式で披露された2020年の東京大会プレゼンテーションをノーカットで、クリエーティブ スーパーバイザーと音楽監督は椎名林檎さん、総合演出と演舞振付はMIKIKOさん。青森大学男子新体操部のダイナミックな演技も必見!」とのこと。
2016年8月21日日曜日
2016天神天満阿波踊り
天神天満阿波踊り実行委員会、天神橋商店連合会、関西阿波踊り協会の主催のもとに行われ(今回で2回目?)、暑い暑い中出かけた。
関西阿波踊り協会に加盟している11連が、AグループとBグループに分かれて、AグループはJR天満駅から14:30~扇町総合高校吹奏楽部オーキーズのオープニングパレード、続いて神戸ちるど連→にしき連→姫路・城東連→なにわ連→大阪天水連が、またBグループは、同時刻に天神橋筋商店街3丁目南側から南大阪連→深雪連→てんばらみとら連→神戸六甲山連→河内連→神戸楠公連による商店街の流し踊りが南方向に行われた。また、阿波踊り教室に参加者による天神天満連も3丁目南側から流し踊りがあったようだ。(パンフレットに記載あり)
その後、16時40分からは天満宮の境内にて9つの連の演舞があったが暑くて暑さに負けて早く帰宅した。今回、関西阿波おどり協会所属連の踊り子と鳴り物、総勢約360名による流し踊りだったが、繊細な鉦の音色や、威勢のいい迫力ある男踊り、元気と笑顔いっぱいの踊りを魅せるちびっ子達などで、天神橋筋商店街は熱気に包まれていた。
昔、所属の「なにわ連」の踊りも久しぶりに見ることができて、格好もよくてすご~く踊ってみたいなぁ~~~と。 しかし、気力は十分だが、この暑さでなくても体力が踊り(10~15分の踊り)についていけないからもう無理だなぁ~諦めるしかないかね。
関西阿波踊り協会の天満宮境内での各連の踊り https://youtu.be/VhbHs7vBStA
関西阿波踊り協会に加盟している11連が、AグループとBグループに分かれて、AグループはJR天満駅から14:30~扇町総合高校吹奏楽部オーキーズのオープニングパレード、続いて神戸ちるど連→にしき連→姫路・城東連→なにわ連→大阪天水連が、またBグループは、同時刻に天神橋筋商店街3丁目南側から南大阪連→深雪連→てんばらみとら連→神戸六甲山連→河内連→神戸楠公連による商店街の流し踊りが南方向に行われた。また、阿波踊り教室に参加者による天神天満連も3丁目南側から流し踊りがあったようだ。(パンフレットに記載あり)
その後、16時40分からは天満宮の境内にて9つの連の演舞があったが暑くて暑さに負けて早く帰宅した。今回、関西阿波おどり協会所属連の踊り子と鳴り物、総勢約360名による流し踊りだったが、繊細な鉦の音色や、威勢のいい迫力ある男踊り、元気と笑顔いっぱいの踊りを魅せるちびっ子達などで、天神橋筋商店街は熱気に包まれていた。
昔、所属の「なにわ連」の踊りも久しぶりに見ることができて、格好もよくてすご~く踊ってみたいなぁ~~~と。 しかし、気力は十分だが、この暑さでなくても体力が踊り(10~15分の踊り)についていけないからもう無理だなぁ~諦めるしかないかね。
関西阿波踊り協会の天満宮境内での各連の踊り https://youtu.be/VhbHs7vBStA
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