28日から秋期京都非公開文化財特別公開が行なわれており、その1箇所である「石清水八幡宮」に自転車(約1時間)で行く途中、枚方市の八幡市との境界にある国史跡「樟葉台場跡」に立ち寄ってみた。ここは平成23年2月7日、 内陸部の河川に面して設置された台場は珍しく、歴史的にも高い価値があるとのことで国の史跡に指定された。枚方市内では百済寺跡、牧野車塚古墳、禁野車塚古墳に続く4番目の国史跡となっている。ついこの3~4年前までは一面が田圃や畑だったが遺構の発掘作業もほぼ終わり?一帯が広々とした芝生の史跡公園に生まれ変わろうとしていた。 ここは、1854年、外国船が大阪湾に現れたという経緯もあり、文久3年(1863年)京都守護職である会津藩主松平容保は、外国船が淀川をさかのぼって京都に攻め込んでこないように淀川の両岸に台場を建築することを建白し、勝海舟が奉行となって建設を始めた。しかし、実際には長州藩などの反幕府側の人物や過激派を京に入れさせないための関門であり、要塞であった。淀川右岸には高浜台場、少し奥に梶原台場が造られ、左岸の楠葉台場は慶応元年(1865年)に完成した。南側から攻め上ってくる船や軍に向けて造られているため、南側のみが稜堡式(大砲を主要防御武器として設計した城で、多数の大砲が死角を補い合うように造られる。)の形式となっていた。結果的には、慶応4年(1868年)1月27日に勃発した鳥羽・伏見の戦いでは、新政府に北側から入ってこられ、北から攻められた場合を想定しておらず、防御陣地としては役に立たなかった。明治時代になり、付近は荒れ果ててしまっていたが、やがて南側の堀のみをのこし、土塁は潰され、他の堀は埋め立てられて田畑となり、1910年(明治43年)には京阪電気鉄道が開業し、遺構の西側は完全に潰された。 上の写真は山崎方面を望む。
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