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2019年10月16日水曜日

曼殊院門跡


学友会のフォト同好会の修学院離宮参観に伴い、昼食の手配などを兼ねて下見に行った。
そのついでに修学院離宮から徒歩約13分にある曼殊院門跡に立ち寄って来た。昔、一度紅葉写真を撮りに立ち寄ったことがあったが、拝観ははじめて。
ここは竹内門跡とも称し、天台宗五箇室門跡の一つとして知られる洛北屈指の名刹。虎の間・大書院・小書院・庫裡は重要文化財で、建築・庭園ともに創意に満ち、狩野永徳や探幽の襖絵など、細部の意匠にも美意識が宿っていて大変よかった。
ここは紅葉の名所でもあり、また紅葉のシーズンに来たいと思う。

2018年6月3日日曜日

滋賀甲賀市の「大池寺」拝観

田舎に行く途中にある滋賀県甲賀市水口の臨済宗妙心寺派「大池寺」(だいちじ)を拝観・蓬莱庭園を鑑賞した。今回、サツキが咲いている時期なので訪れてみたが、昨年(6/6)の時よりは咲いていたが、満開で綺麗な時期が少し遅かったようだ。書院からみるサツキの庭園を眺めながら、しばしのひと時を過ごした。
この大池寺は、今から約1250年前、諸国行脚の高僧、行基菩薩(668~749)がこの地(滋賀県甲賀市水口町名坂)を訪れた際、日照りに悩む農民のため、灌漑用水として「心」という字の形に4つの池を掘り、その中央に寺を建立し、一彫りごとに三拝したという「一刀三礼の釈迦丈六坐像」を安置したと伝承されている。(詳細は「大池寺」サイトを参照)
ここの蓬莱庭園は、江戸初期寛永年間に小堀遠州の作として伝えられサツキの大刈り込み鑑賞式枯山水庭園。書院前方正面の二段刈り込みと左右の大刈り込みは大洋の大波小波を現し白砂の水面上に刈り込みを以て宝船を浮べ中に七つの石と小さな刈り込みで七宝と七福神を象徴しているとのこと。
昨年6月6日に撮影した動画。

2018年6月2日土曜日

「常照皇寺」拝観


先輩OBのMさんと新緑を求めてバス「美山ネイチャー号」で、国の天然記念物「九重桜」で有名な京都右京区の「常照皇寺」と美山町の「かやぶきの里」を訪れた。このバス「美山ネイチャー号」は、4月7日~7月1日の土曜祝日のみ運行で京阪樟葉駅前と高速長岡京から予約して乗車できる。この日(6/2)は、団体客がありほぼ満席だった。この「常照皇寺」は臨済宗天龍寺派の禅寺。北朝初代の光厳天皇が開き、南北朝の動乱という歴史の渦に巻き込まれ、ここに隠棲した。また天皇は周辺の自然を庭に見立て、寺の裏山を猿帰嶂、滝を白玉泉、山全体を万樹林と名付け、周囲の十勝を選ばれたという言い伝えがあり、今もこの景観はほとんど楽しむことができる。国重文指定の弥陀、観音、勢至の三佛など、佛堂には二十余体の像佛が安置されている。庭には、国の天然記念物「九重桜」、御所より枝分けした「左近の桜」など名木があり、4月中旬ごろが見頃。また、堂の奥庭の「紅葉」は別格の趣がある。
この「常照皇寺」は、十数年前に「九重桜」の写真を撮りに訪れたことがあったので2回目だったが、また機会を見つけて訪れたいところだ。

2018年5月26日土曜日

京都「光悦寺」参拝

「源光庵」から徒歩約5分にある「光悦寺」も訪れた。
ここの参道の両脇にはカエデ、もみじが植えられたトンネルの中を通り参拝したが、新緑がとっても綺麗だった。紅葉の時期はもっと違って綺麗と思うので、ここも再訪したと思う。
ここは江戸初期の文化人・本阿弥光悦が1615年(元和1)徳川家康から与えられたこの地に草庵を結び、法華題目堂を建てたのが起こりで、光悦の死後、寺(日蓮宗)となった。境内には大虚庵など7つの茶室があり、竹を斜めに組んだ垣根は光悦垣と呼ばれている。

京都「源光庵」参拝

新緑を求めて京都北区鷹峰の「源光寺」を訪れた。ここへは京阪三条から直通バスがないので(北大路バスターミナルで乗換えが必要)、金閣寺方面行の市バス(59号系統)にて北大路千本で下車し、徒歩約25分で到着。バス停からはずう~とのぼり坂のため時間がかかった。
ここは貞和2(1346)年に徹翁(てっとう)国師が開山した寺院で、もともとは臨済宗大徳寺派の寺院として創建された。
源光庵は「迷いの窓」と「悟りの窓」で有名である。この窓からみる新緑のもみじは美しく、紅葉の時期にも再訪したいと思う。
以下関連サイトから抜粋すると「『迷いの窓』は、迷いの窓の四角い形は、人間が誕生し一生を終えるまで逃れることのできない過程、つまり「人間の生涯」を4つの角で象徴しています。この「迷い」とは「釈迦の四苦」のことで、この窓が生老病死の四苦八苦を表しているといわれています。『悟りの窓』は、悟りの窓の丸い形は、「禅と円通」の心が表されています。ありのままの自然の姿、清らか、偏見のない姿、つまり悟りの境地を開くことができ、丸い形(円)は大宇宙を表現しています。」
また、源光庵の天井をよく見てみると、血痕が付いていることがわかり、この天井を血天井と呼ばれている。京都・伏見桃山城の遺構。慶長5(1600)年、徳川家康の忠臣であった鳥居彦右衛門元忠の一党の約1800人が、石田三成の軍勢と交戦し、多くの武将が討死した。生き残ったおよそ380人全員も自刃し、流れた血痕が床に残された。亡くなった一党の魂を冥福しようと、血痕の残された床板は5つの寺院にわけられ、一部が源光庵にも奉納された。そして床板を天井にあげ、一党の魂の供養が行われたという。ところどころに血で染まった足跡があり、それはここ源光庵にしか残されていないのだという。

2018年5月3日木曜日

南栃市井波の「瑞泉寺」拝観

南栃市井波の「瑞泉寺」に行く途中、ちょうど井波八幡宮春季例大祭「よいやさ祭」が行われて、子ども神輿・大人の神輿(それぞれ3基)が街中を担いで大変賑わっていた。「瑞泉寺」は拝観料がいるが、当日はお祭りということもあってなし?だった。広々とした境内に歴史を感じさせるたたずまいで一歩足を踏み入れるとその格調高い風格に包まれる。彫刻の町井波の寺院らしく、町の彫刻師たちによる本堂をはじめ山門や宝物殿、庭園や茶室など、注目すべき見どころが多かった。見事な彫刻が随所にみられる瑞泉寺の中でも、ひときわ目を引くのが太子堂の彫刻の数々。見るだけで圧巻の彫り物の細工は繊細で美しく、先人の偉業に驚かされる。境内を彩る藤が満開で綺麗だった。

2018年1月11日木曜日

本願寺大谷本廟に参拝

京都清水五条の本願寺大谷本廟(西大谷)に、義父と両親の納骨をしており初参りに訪れた。まず仏殿にお参り、その後6階建ての第一無量寿堂(むりょうじゅどう)の5階の「かー14号」にある「本誓寺」の納骨仏壇(両親の納骨)にお参りした。
この大谷本廟は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の祖廟で宗祖親鸞の遺骨を祀る。龍谷山(りゅうこくざん)と称し、俗に西大谷とよばれる。もともと鳥辺野の北、大谷の地にあった親鸞の墓所に建てられた廟所が本願寺で、1478年(文明10)本願寺が蓮如(れんにょ)によって山科に再興されるまでは、寺は長い間さびれてはいたけれども、いわば浄土真宗の本山であった。その故地は現在の知恩院の境内である。現在地には1603年(慶長8)に移し変えられ、旧名を継いで大谷の名を用いた。仏殿その他の建造物は1867年(慶応3)に火災によって焼失したので、1870年(明治3)以降に再建されたものである。現在、門信徒のための近代的な納骨堂(無量寿堂)がある。 (関連サイトから抜粋)

2017年11月21日火曜日

天龍寺塔頭「宝厳院」の紅葉

天龍寺塔頭の寺院大亀山「 宝厳院」の秋の特別公開が行われていたので、初めて拝観した。さすがに紅葉の名所だけあって素晴らしくめちゃ多くの入園者で賑わっていた。
ここは室町時代に細川頼之公の財をもって、天龍寺開山夢窓国師より三世の法孫にあたる聖仲永光禅師を開山に迎え創建された。ご本尊は十一面観音菩薩、脇物には三十三体の観音菩薩、足利尊氏が信仰したと寺伝にある地蔵菩薩像が祀られており、西国三十三ヶ所巡りに等しいと伝えられている。また、庭園は室町時代の禅僧策彦周良禅師によって作庭。嵐山を借景として巧みに取り入れ、また「獅子岩」等の巨岩を配した借景回遊式庭園であり、江戸時代の京都の名所名園を収録した【都林泉名勝図会】にも掲載されている。寺伝によると、宝厳院は、寛正2年(1461年)室町幕府の管領であった細川頼之公の財をもって、天龍寺開山夢窓国師より三世の法孫にあたる聖仲永光禅師を開山に迎え創建された。
創建時は、現在の京都市上京区の位置にあり、広大な境内を有した寺院であった。応仁元年(1467)から文明9年(1477年)までの約10年間にわたって継続した応仁の乱により京の都は灰燼と化し、宝厳院もまた焼失する。その後、天正年間(1573年 - 1591年)において豊臣秀吉より再建され、御朱印料三十二石を付与、徳川幕府も明治に至るまで外護した。その後変遷を経て天龍寺塔頭弘源寺境内に移転し、現在地(旧塔頭寺院跡)に移転再興した。(以上、関連サイトから)


2017年11月6日月曜日

京都「北野天満宮」参拝

秋期京都非公開文化財特別公開(1日~12日)が行われている「北野天満宮」に参拝に出かけた。
ここでの公開は宝物殿内で「北野天神縁起絵巻」(国宝)と鬼切丸(重要文化財)などの宝刀が主であった。「北野天神縁起絵巻」は菅原道真の生涯と、没後の怨霊(おんりょう)の祟(たた)り、北野社(現在の京都・北野天満宮)の創建とその霊験(れいげん)・利生(りしょう)を絵画化したものである。写真撮影は禁止だった。
また、鬼切丸(重要文化財)などの宝刀は、武運長久を祈願して名立たる武将より奉納された刀、技の上達を願って刀鍛冶から奉納された刀など、当宮に所蔵する約80振の御神刀から、およそ40振を一挙公開されていた。罪人の首をはねた際、髭まで断つ切れ味の鋭さから「髭切」の別名がついたといわれる。また、一条戻り橋で渡辺綱が鬼を切ったという伝説から「鬼切丸」とも呼ばれているとのこと。刀を納めた箱も展示されていた。
刀にはあまり関心がないので、そのよさがよく分からなかった。
境内にある「もみじ苑」が公開されていたが、まだモミジの紅葉には少し早いので入苑せずに帰った。

2017年11月2日木曜日

「酬恩庵一休寺」参拝

秋期京都非公開文化財特別公開(1日~12日)が行われており、京都精華町の「酬恩庵一休寺」に参拝に出かけた。ここでの文化財特別公開は、大徳時住職の一休禅師が晩年過ごした虎丘庵や浴室などの公開だった。
このあと「酬恩庵一休寺」の方丈、方丈庭園、本堂、一休禅師の墓、少年一休像などをみて回った。
紅葉には少し早かったが総門や参道などのモミジも少し色付きはじめていた。
ここ「酬恩庵一休寺」は、当時の元の名は妙勝寺であって、鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師(南浦紹明)が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後禅の道場をここに建てたのが始めである。然るにその後、元弘の戦火にかかり復興もならずにいたものを、6代の法孫に当たる一休禅師が康正年中(1455〜6年)、宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩にむくいる意味で「酬恩庵」と命名した。禅師はここで後半の生涯を送り81歳で大徳寺住職となった時もこの寺から通われたのであり、文明13年(1481年)11月21日88歳の高齢を以って当寺において示寂され遺骨は当所に葬られたのである。このように禅師が晩年を過ごされたことにより「一休寺」の通称が知られるに至った。(関連サイトから転記)


2017年10月24日火曜日

泉涌寺塔頭「来迎院」参拝

京都東山区にある総本山真言宗「泉涌寺」の塔頭「来迎院(らいごういん)」を参拝した。
ここは鎌倉時代に建てられたお寺で、仏教の三宝である仏・法・僧を守る日本最古の「三宝荒神」が安置されている。ここの庭園「含翠(がんすい)茶庭」は回遊式の小さい庭で、手入れが行き届いているというよりは自然な感じの庭園であった。大石内蔵助が建てたといわれる茶室「含翠(がんすい)軒」(中の写真)があり、ここで赤穂浪士とも密会をしていたとか。また、客殿の縁側には小泉元首相がここを訪れたときの写真も展示されていた。参拝者は、自分一人でかなり寂しいと感じる庭園でもあったが、しばしその静寂を味合うことも出来た。
紅葉には1ヶ月早い時期であったが、モミジやカエデの葉っぱの先が少し色付き始めていた。あと1ヶ月後の紅葉風景がいいだろうなぁ~と想像しながら「来迎院」を後にした。

京都「泉涌寺」参拝

東山三十六峯の一嶺、月輪山の麓にたたずむ真言宗泉涌寺派の総本山総本山「御寺泉涌寺」に参拝した。
ここは弘法大師・空海が天長年間(824~834年)にこの地に法輪寺(ほうりんじ)と呼ばれる寺を建てたのが由来。その後、建保6(1218)年に月輪大師(がちりんたいし)がこの聖地の寄進を受け、大伽藍の造営にあたっていたころ、境内の一角から清水が湧き(涌き)出たことから、「泉涌寺」と名前を改められた。天皇家からも篤く信仰され、鎌倉時代の四条天皇から江戸時代の孝明天皇までの歴代の御陵が39陵あり、皇室との関係が深いことから泉涌寺は、『御寺(みてら)』とも呼ばれている。これは、日本で唯一の皇室の菩提寺に与えられた名前である。
ここ泉涌寺は2回目であるが、もう一度「仏殿」「舎利殿」「本坊」「御座所」(玉座の間等)「霊名殿」「庭園」などを拝観して回った。
庭園の本格的な紅葉は、まだ1カ月程早いが、上の方の葉っぱは色付きはじめていた。 あと1カ月後に訪れたいと思う。

2017年10月4日水曜日

総本山「智積院」参拝

京都市内でクラス会の宿泊先(京都駅前の京都新阪急ホテル、新・都ホテル、ホテル吉野家、天然温泉花蛍の湯など)を下見に行った帰りに立ち寄り参拝、庭園を鑑賞してきた。
ここ総本山智積院は、真言宗智山派三千ヵ寺の総菩提所・総祈願所で、七条通りの突き当たりの東山にある。数々の伽藍と多くの貴重な文化遺産があり、特に長谷川等伯(1539-1610)とその弟子達によって描かれた「楓図」「松に立葵図」や等伯の長男・久蔵の作とされる「桜図」は、桃山時代を代表する障壁画であるとともに、日本が世界に誇り得る第一級の絵画とのこと。
また、大書院東側の名勝庭園は、桃山時代に造られた庭園で、中国の廬山を形どって作られた利休好みの庭としても有名である。
やはり利休好みの庭と言われるだけあって、いい眺めでしばし鑑賞した。

2017年9月9日土曜日

金閣寺(鹿苑寺)

「しょうざんリゾート京都」の帰りに、約30年ぶりに臨済宗相国寺派「金閣寺(鹿苑寺)」に立ち寄って拝観した。
相変わらず人気があり、多くの外人が訪れていた。(ざぁ~と見て7~8割は外人か?)
ここは、足利義満が1397年、金閣寺を建設。それ以降修繕を繰り返し、維持していたが、1950年心無い放火によって全焼、その5年後の1955年に新しい金閣寺が建ち今日に至っている。

2017年9月5日火曜日

「長命寺」参拝

田舎(日野町)からの帰りに近江八幡市の「長命寺」に立ち寄り、数年ぶりに参拝した。
ここは市の北西端、長命寺山(333m)の標高約250mの山腹にある寺院。西国三十三カ所第31番札所で、「八千年や柳に長き命寺、運ぶ歩みのかざしなるらん」という詠歌のとおり、「寿命長遠」の御利益があるとされている。
3世紀後半から4世紀初頭の景行天皇の時代、武内宿禰(すくね)がこの山で長寿を祈ったといい、開基は聖徳太子と伝えられいる。
 平安時代前期に寺院の基盤ができたと考えられており、その後、近江守護佐々木定綱(さだつな)が戦死した父の菩提を弔うために、平安時代後期に本堂をはじめ、釈迦堂・薬師堂・太子堂・護摩堂(ごまどう)・宝塔・鐘楼・仁王門などを建立。現在の社殿は戦国時代中期に兵火で焼失したあとに再建されたもの。
 千手観音を本尊とし、聖観音・十一面観音・毘沙門天など多くの国指定の重要文化財が安置されており、その他、建造物のすべてが県あるいは市の指定文化財になっているという由緒ある寺院。四季を通じて多くの参詣者が全国から訪れ、湖辺近くの山腹風景も美しい。

2017年8月30日水曜日

京都「六角堂」参拝

 高校クラス会の幹事であり、宿泊先(旅館・ホテル)を検討する時期になり下見に出かけた。
その途中に「六角堂」があり、はじめてあるが参拝した。
ここは正式名称は紫雲山頂法寺といい、天台系の単立寺院である。本堂の形が六角形であることから、古くより「六角堂」の通称で知られ、親しまれている。
聖徳太子が用明天皇2年(587)に創建したと伝え、本尊如意輪観音像が人々の信仰を集めてきた寺院である。また、華道家元池坊が住職を務め、いけばな発祥の地としても知られて、池坊専慶、池坊専応、池坊専好など、数々の花の名手を輩出している。
六角堂の横には池坊の本部ビルが建っていた。

2017年7月28日金曜日

遠山郷土館「和田城」「龍淵寺」

遠山郷土館[和田城]は、南信濃村和田の街をのぞむかつての和田城跡地にあり、戦国時代、この地の領主であった遠山氏の 当時の栄華を偲び、「和田城」の再現を図ったもの。ここでは、伝統芸能をマルチビジョンで紹介し、 霜月まつりに使う面の複製面を200点余り展示するなど、 芸能文化の里にふさわしい施設となっていた。 また、野外には、遠山土佐守・徳川家康対面像があった。
その敷地の横には「龍淵寺」があり、境内の観音大杉のもとに遠山氏一族の墓所があった。この観音大杉は樹齢約500年、幹周り20mといわれるもので、その迫力には圧倒された。
また、南アルプスの最南端・遠山郷唯一の独立峰・盛平山の麓にこんこんと湧き出る「龍淵寺 観音霊水」は、今や日本一の鉱物物質含有量を誇るナチュラル・ミネラルウォーターとして注目されているという。 多くの町民の人たちが軽自動車などでくみに来ていた。


2017年7月9日日曜日

妙心寺塔頭「桂春院」

「法金剛院」を拝観後、慶長3年(1598年)に創建された、妙心寺の塔頭「桂春院」をはじめて訪れた。
ここには清浄の庭、侘の庭、思惟の庭、真如の庭の四つの庭園があり、国の名勝・史跡に指定されている。
清浄の庭は石組、井戸、白砂を配置した坪庭、侘びの庭は書院正面には石組・灯篭・楓が並んで、 柱が額縁のようになり、一枚の絵画のように見える。真如の庭は春にはつつじが、秋には紅葉が庭を彩る。 今回、花の季節ではなかったので訪れる人も自分ひとりだったが、庭園を眺めて心が安らぐひと時を過ごした。
また、花の咲く頃や紅葉時期に訪れたい。方丈内部には狩野山雪の障壁画が飾られている。









関西花の寺「法金剛院」

関西花の寺25カ所霊場の1つの「法金剛院」をはじめて訪れた。JR花園駅前の法金剛院は名高きハスの名所で、小雨が降る中、ハスの花が咲き始めて多くの人が訪れいた。
特別名勝の回廊式庭園に7月上旬から8月初旬にかけて約90品種ものハスが次々と咲き揃うという。庭園の池のハスの花は、あまり咲いていなかったが、鉢植えのハスは綺麗に咲いていた。
案内人の話では、ハスの花は開花初日、夜明けから10時頃まで猪口(ちょこ)のように咲き、2日目には椀のように11時頃まで咲く。3、4日目は昼過ぎから夕方頃まで咲き、そして散ってしまう、という。
この寺の起こりは平安時代の初めに右大臣清原夏野(なつの)が山荘を寺に改めたこと。その後、大治5年(1130)に鳥羽天皇の中宮待賢門院(たいけんもんいん)が都の西方に極楽浄土を求めて壮麗な伽藍を建立し、法金剛院と号したという。
















2017年7月5日水曜日

関西のあじさい寺「岩船寺」

関西花の寺25カ所霊場の1つで「関西のあじさい寺」と呼ばれる岩船寺へはじめて訪れた。
ここは摩崖仏や石地蔵が数多く見られる当尾(とうの)の里(京都府木津川市加茂町)にあり、三方を深い樹林に囲まれ、緑の中にすっぽりと入ってしまったようなたたずまい。その境内にそこかしこにアジサイが咲く。その数は35品種・5000株ほど。淡い紫、赤紫、青紫と一雨ごとに微妙に色を変え、その幽玄な景色はまさに花曼荼羅。 昭和12年頃に先代住職が植え始め、現在の住職が引き継いで育て上げたという。
ここのアジサイは境内を埋め尽くす壮観の美ではなく、背後の緑や本堂・三重塔の建造物、庭の木々などを考慮に入れた配し方が素晴らしい。
この岩船寺は、天平元年(729)に聖武天皇の勅願によって行基が阿弥陀堂を建てたのが始まりと伝わる。その後、弘法大師と智泉大徳(弘法大師の姉の子)によって堂塔伽藍を建立。最盛期は広大な境内に39坊が立ち並ぶ大寺だったが、承久の変(1221)によって大半が焼失した。しかし、貴重な寺宝は数多く残されている。まずは本尊の阿弥陀如来坐像(重文)である。平安時代の行基作と伝わり、そのおおらかで包容力のある表情に自ずと心が鎮まる。これは10世紀彫刻の基準作例となる。平安時代の普賢菩薩騎象像、鎌倉時代の石室不動明王立像も重要文化財だ。また、平成の大修理が完了し、朱色と白色の対照美が樹影に美しく映える三重塔と十三重石塔も重要文化財である。(関連サイトから抜粋)