2016年3月28日月曜日

「あさが来た」のセット公開

視聴率トップで高人気のNHKの朝ドラ(連続テレビ小説)「あさが来た」も今週で終わるが、その収録で実際に使用された「加野銀行&白岡家」のスタジオセットや衣装・小道具などが、大阪放送局1階のアナトリウムで公開された。(28日(月)~4月10日(日))初日でもあり多くの人たちが見物に訪れていた。
ドラマでみた「加野銀行&白岡家」のスタジオセットの内部(銀行の正面入口・内部、役員室、応接室、中庭、和室等)や衣装(あさが着た洋服、新次郎の着物など)や小道具(まねき猫、ピストル、かんざし、書類などなど)を見物した。

2016年3月27日日曜日

京都御苑のしだれ桜

京都御苑のしだれ桜の写真を撮りに出かけた。ここのソメイヨシノの桜はまだまだつぼみであったが、しだれ桜はほぼ満開で、外人を含めて多くの人たちで賑わっていた。
ついでに府立植物園のしだれ桜もみに行ってみたが、まだつぼみでこれからだった。ソメイヨシノと同じ時期の今週末から来週が見頃と思われれる。 また機会があれば行ってみたい。



2016年3月26日土曜日

「藤原道山の風雅竹韻」公演

昨日の「藤原道山 風雅竹韻」プレ・レクチャーに続いて本日、いずみホールにて公演があった。併せて昨日同様にNHKから道山の追っかけ取材として撮影も行われた。
演奏曲は藤原道山独奏のアメイジング・グレス、道山・永廣孝山による二重奏で山本邦山作曲「尺八二重奏曲第三番『対動』」、道山独奏の道山作曲「空」、道山他六重奏の三宅一徳作曲「失われた『時』」、道山他四重奏の流祖中尾都山作曲「鶴の巣籠」 (この曲だけは舞台に道山、他の奏者は左右の客席に2名と真後ろの客席2名で演奏)、道山独奏の藤倉 大作曲「ころころ」、道山他八重奏の山本邦山作「竹の群像」の7曲で、今回はじめて聴く曲だった。 この演奏の中には若い音楽大学芸術学部・大学院修了の2名の女性プロ奏者もいて少し華やいだ演奏会でもあった。
「風雅竹韻」は、藤原道山さんがこの公演のために付けたタイトルで、尺八の音を竹韻とし、優雅な風を起こすさまをイメージして付けられたという。その優雅な尺八の音色がいずみホールに響き渡りすばらしい演奏で魅了した。 やはり尺八の音色はよいなぁ~と改めて感じた。

2016年3月25日金曜日

「藤原道山 風雅竹韻」プレ・レクチャー

明日(26日)の公演に向けて「15周年藤原道山 風雅竹韻」のプレ・レクチャーがいずみホールのロビーで、約50名の参加のもと行われた。 これにNHKから道山の追っかけ取材として撮影も行われた。
概要は藤原道山さんのプレ・レクチャー(約90分)とバックステージの見学だった。 プレ・レクチャーの概要は、まず尺八で「早春賦」を奏でてから尺八の歴史について詳しい話があった。尺八は中国から日本に渡り聖徳太子も吹いていたとの書物もあって古い歴史があること、その後時代とともに移り変わり、明治以降合奏もできて今日に至っている。 現在、海外でも非常に人気があり奏でる人も増えて、日本の楽器の代表に位置づけられているという。 また、尺八は一尺八寸が標準の長さであるが、一尺六寸、二尺三寸がり、それぞれ音色も違うことを実演しながらの説明や5つの穴を使って息、指、首の3つで音色を出すことを実演しながらの話もあった。話も結構うまいし、面白い話もあって大変よかった。
道山さんは、10歳より尺八を始め、人間国宝 山本邦山に師事。東京芸術大学音楽学部邦楽科卒業、同大学大学院音楽研究科修了。2001年アルバム「UTA」でCDデビューして以来、クラッシック、ジャズなどにも音楽活動を展開し、現在、東京芸術大学音楽学部非常勤講師として後進の指導も積極的に行っている若く長身でカッコよい尺八演奏家である。
筆者も学生時代(18歳頃)に「軟式テニス部」でテニスに明け暮れていたが、他に何かやりたいとの思いで「尺八部」に入部し、尺八の先生(師匠)に教えてもらいながら猛練習し、部員と一緒に秋の文化祭(邦楽演奏会)や他の大学の文化祭などで尺八と筝との演奏会もやり楽しかった思い出がある。入社してからは、尺八の先生を探そうと流祖中尾都山の出身地である枚方市駅近く(岡東町)の中尾家(その当時の宗家は京都に移住、行った家は関連の中尾宅)に行って、出来るだけ寮に近い(京阪古川橋)師匠(先生)を紹介してもらい習い始めた。3~4年通っただろうか、免許も「初伝」→「中伝」→「奥伝」の手前となり、竹名も師匠の「吉田蒋山」の一字をもらって「蒋栄」としたが、その頃から仕事も忙しく、また大学の夜学に通いだしたため全く練習が出来なくなりずるずるとサボり、結果的にはやめてしまった。その後は、またやろう、またやろうと思いながら尺八はどうも古臭い?というイメージもあって、手付かずで今日に至ってしまった。今思えば、あの時しんどかったが少しでも続けてやっておけば、今頃は免許も「師範」以上になって、名前も「栄山」と付けられ、演奏活動もできて変わっていただろうにと少し悔やまれる。 今からでもやってもよいからやろうかなぁ...。その当時に買った尺八(確か1万円程)はガラス戸棚に置いたまま眠っている。上の写真は懐かしい邦楽演奏会で琴との合奏風景(右から二人目が筆者)、下は虚無僧に扮して演奏した姿(左が筆者)。

2016年3月22日火曜日

大相撲3月場所の観戦

大相撲3月場所10日目を観戦した。相撲が好きでいつもTVを観て楽しんでいるが、大阪の春場所にはいつも1~2日は観戦に出かけている。 入場券はネットで購入し、席は椅子席B1列53番(3階席、5600円)で、3階席からの観戦であるが、TVとは違って会場内の雰囲気や力士の取り組みの迫力も伝わり相撲の醍醐味を味合うことが出来た。
この日の好取組の琴奨菊対豪栄道戦で、昨日琴奨菊は稀勢の里に思い切って踏み込んだが、かわされて簡単に負けてしまったことが頭にあったのか、踏み込みが甘くて豪栄道に負けてしまい3敗となり横綱の夢は絶望的になった。 豪栄道は1敗で稀勢の里(全勝)を追うことになり大関になってからはじめて優勝争いに絡んでの大活躍、館内はすごい声援だった。
全勝の稀勢の里対鶴竜戦は、鶴竜に両差しにされ俵に足がかかったが、左から投げを打ちながら持ちこたえるなどして小手投げで勝って全勝した。1敗の白鵬対照ノ富士戦は寄り切りで勝ち1敗を守った。
10日目が終わって全勝が稀勢の里、1敗が白鵬と豪栄道であるが、明日の取り組み白鵬対稀勢の里戦で優勝の行方がほぼ決まるだろう?と思うが、今の勢いからすれば、ひょっとすれば稀勢の里が勝って初優勝するのでは~、と予感する。豪栄道にもまだ初優勝という夢が残っているので、地元のためにも頑張ってほしい。今場所は、初場所の琴奨菊の初優勝が、稀勢の里と豪栄道を奮起させて非常に面白い展開になり、相撲ファンとしてもたまらない。久しぶりの相撲観戦を楽しんだ一日だった。
<後書き、ひょっとすれば稀勢の里が初優勝かと予想したが、ひょっとしなかったのが残念。千秋楽まで優勝争いしたのはよかったし、今後に期待したい>

2016年3月21日月曜日

西の丸庭園の生物季節観測

 大阪城の大手口を守る重要な隅櫓の一つ「千貫櫓」と石造りの火薬庫「焔硝蔵(えんしょうぐら)」が西の丸庭園内にあり、その庭園内に大阪管区気象台の「生物季節観測用標本」と「準生物季節観測用標本」の2本の桜(そめいよしの)木がある。
見に行くと「生物季節観測用標本」には、一輪だけ咲いていた。大阪の開花日は24日との予想がされているが、まだまだつぼみで、ここ3~4日後に開花宣言されるのではと思われた。
西の丸庭園前にはしだれ桜がきれいに咲いていた。(下の写真) もうすぐ春本番だなぁ~。
※23日追記:23日午前10時頃大阪管区気象台の職員により標準木に5輪の開花を確認、平年より5日早く、昨年より3日早い開花とのこと。当初の予定の23日がピシャット当たった。30日から4月2日が満開の見頃だろうから是非訪れてみたいものだ。

大阪城の櫓特別公開

歴史ある大阪城の魅力を今に伝えるものとして、重要文化財に指定されている櫓3棟が普段は外からしか見ることのできないが、今回櫓建造物の内部を拝観できる貴重な機会とのことで見に出かけた。「大坂の陣」以後、徳川幕府による再築工事により築き直され、火災や戦火をくぐり抜けて今もなお残る古建造物の中から、今回は渡櫓と続櫓からなる「多聞櫓」(1848年再建)、大阪城の大手口を守る重要な隅櫓の一つ「千貫櫓」(1620年)、面積約172平方mで高さ約5.4mもある石造りの火薬庫「焔硝蔵(えんしょうぐら)」の内部が公開されていた。大阪城天守閣を中心に広がる大阪城公園には大手門、千貫櫓、火硝蔵など13棟の重要文化財があるが、今回、この中の3つの櫓(蔵)の内部をはじめて見物するができて大変参考になった。
上の写真は大手門の入口からみた、左側が「千貫櫓」と内部の一部、右側が「多聞櫓」と内部、下の写真は西の丸庭園にある「焔硝蔵」と内部の一部である。

2016年3月16日水曜日

北浜「光林坊」食事会

親友2人(計3人)で、6カ月振りの食事会。いつものように大阪駅中央改札口前に10時半に集まって、まず徒歩で肥後橋の大同生命ビルで展示の「加島屋と広岡浅子」展をみに行った。NHK連続テレビ小説「あさが来た」の影響で、団体の人たちを含め多くの人たちで大賑わいですごい人気のようだった。そのため当初3月17日で終わる予定が3月31日(木)までになり、また9月30日(金)まで開催されることになったとのこと。ただし、4月から9月30日までは日・祝日、月曜日は休館とのこと。
そのあと、徒歩で北浜の老舗、日本料理の「光林坊」で、光琳弁当「あかね」を久しぶりの再会で歓談しながら美味しく食べた。また、ここはアサヒメートの会員であるため安く食べられた。
この「光林坊」は昭和43年11月に、加賀百万石の城下町、金沢の絢爛豪華さをテーマに加賀料理を提供する「光林坊1号店」が東京・新宿に開業、その後3号店として平成元年12月に関西初出店となる「光林坊北浜」が、古くから豪商の街と呼ばれる北浜の地に誕生し、今日に至っているとのこと。地下1階のため、夜の雰囲気にもなり高級と言うか落ち着いたよい料亭である。 美味しい日本料理で満足の一日でもあった。(´▽`)

2016年3月13日日曜日

エヴェレスト神々の山嶺

第11回柴田錬三郎賞を受賞した夢枕獏氏による小説「神々の山嶺」を、平山秀幸監督により映画化した「エヴェレスト神々の山嶺」が公開(12日)され鑑賞。
標高8848M、氷点下50℃、最大風速は50M以上、呼吸すら困難な、まさに「極限の世界」のエヴェレスト。本作では日本映画史上初、実際にエヴェレストの標高52000M級で、10日間にわたって撮影が敢行されたものである。
アルピニスト(登山家)である羽生丈二(阿部寛)が、前人未到のエベレスト南西壁冬期無酸素単独登頂に挑む姿を描くもので、山岳カメラマンの深町誠(岡田准一)、かつて天才クライマーと呼ばれながらも無謀で他人を顧みないやり方のために孤立した伝説のアルピニストの羽生丈二(阿部寛)、羽生に人生を翻弄されながらも愛し続ける涼子(尾野真千子)が演じたものである。 今回、実際にエベレストで撮影され、命をかけたリアルな作品で、エベレスト登頂の厳しさが見事に表現されていたのはよかった。 が、物語がもう一つ?で、余り感動しなかったことが残念だった。(あらすじは省略:「エヴェレスト神々の山嶺」公式サイトを参照)

2016年3月12日土曜日

映画「家族はつらいよ」

山田洋次監督が『男はつらいよ』シリーズ以来、20年振りとなる本格喜劇の『家族はつらいよ』が、本日公開された。 家族を演じる出演者には、『東京家族』(2013年)のキャストが再び集結。父役(橋爪功)、母役(吉行和子)、長男役(西村雅彦)、長男の妻役(夏川結衣)、長女役(中嶋朋子)、長女の夫役(林家正蔵)、次男役(妻夫木聡)、次男の恋人役(蒼井優)である。
あらすじは、モーレツサラリーマンだった時期を終えて今はすっかり隠居生活を送っている。今日も仲間とゴルフを楽しんだ後、美人女将・かよ(風吹ジュン)がいる小料理屋で散々女房の悪口を言って盛り上がり上機嫌で帰宅。長男・幸之助(西村雅彦)の嫁・史枝(夏川結衣)は酔っぱらっている周造に気を遣いながらも義父の苦言に笑顔で付き合う。妻の富子(吉行和子)もまたそんな夫を優しく迎え、寝室で脱ぎ捨てる服を拾い歩きながら着替えを手伝うのだった。周造はいつものように靴下を脱ぎ捨てながら、ふと寝室に飾られたバラの花瓶を見て「その花どうした」と尋ねる。なんでも誕生日に花をプレゼントする事は仲間の決まりで、今日は私の誕生日なのだと富子は言う。すっかり忘れていた周造だったが、たまには妻に誕生日プレゼントでもしてやろうかと欲しいものを聞いてみると、富子が机から持ち出してきたのはまさかの離婚届であった。突然の宣告を受け唖然と凍りつく周造。一方、富子はそんなことはお構いなしに冷静に部屋を出ていってしまう。翌日金井家に嫁いだ長女・成子(中嶋朋子)が浪費癖のある夫・泰蔵(林家正蔵)と別れたいと泣きついてくる。追い掛けてきた成子の夫の言い訳を聞いていらついた周造は、思わず自分も離婚の危機にあることをぶちまけてしまう。 突然起きたまさかの平田家の『熟年離婚』騒動に幕が開けた……。秋晴れの日曜日。周造と富子、幸之助と史枝、長女・成子(中嶋朋子)と夫・泰蔵(林家正蔵)が集まっている。その離婚問題について議論しようとしたとき、今日が家族会議だと聞かされていなかった次男の庄太(妻夫木聡)が恋人を紹介するため憲子(蒼井優)を連れてくる。なかなか本題に入れない一同だったが、ようやく憲子を交えた8人で家族会議が始まった。だが幸之助と成子が口論を始め、ついには史枝、庄太、泰蔵まで巻き込まれ、会議は思わぬ方向に進んでしまう。やがて長年抱え続けた富子の思いがけない本音「お父さんは朝起きると『がらがら』と大きな音でうがいするし、おならを平気でするし、帰ってくるとズボン、上着を脱ぎっぱなし、パンツや靴下も同じく脱ぎっぱなし、トイレの蓋やドアも閉めないし、もう我慢にも限界がきた。お父さんは家庭を支えるため頑張っているので我慢して尽くしてきたが、子どもも一人前になったし好きなことをして過ごしたい…」という。周造(橋爪功)は、「ワシは何も悪いこともしていないし、今まで家庭のために身体を粉にして頑張ってきたのに…と憤慨する。」 長女の夫役(林家正蔵)から小料理屋の美人女将・かよ(風吹ジュン)と仲が良くなっていると写真を見せて暴露。ここで週造は倒れて入院してしまう。数日が経ってやっと思いを叶えてやろうと思うことになり、「離婚届」に署名し印鑑を押して妻に渡しながら「君と結婚してよかった。今までいろいろと尽くしてくれて有難う…」と言って渡す。妻はしばらくして、このことを言って欲しかった…。そのことを待っていたと言って、離婚届を粉々に破ってしまう。
というものだったが、世の中の男性はこういう人がまだまだ多いのであろと、改めて考えさせられた映画でもあった。周造役の橋爪功さんの喜劇調の演技もうまかったし、8人の家族を演じた役者は、「東京家族」で気心が知れてた仲間であり、笑いなど呼吸がピッタリでよかった。

2016年3月10日木曜日

京都・淀の河津桜

京都伏見の淀地域の淀水路沿いで、早咲きの「河津桜」が見頃を迎えているとの報道があり、出かけてみた。
ここは地域の名所にしようと、住民でつくる「淀さくらを育てる会」が静岡県発祥の河津桜を2002年から植樹しているところである。
植樹の取り組みは、水路のほか小学校や地域の公園にも広がり、現在は約240本を育てているとのこと。
今年も2月中旬から咲き始め、現在も鮮やかなピンク色の花が咲きそろっているが、その中でもう大分散っている木もあり、今回見に来るのが一週間ほど遅かったようだ。
そんな中で、地域の住民やカメラを持って撮影する人など多くの人たちが春の雰囲気を楽しんでいる様子がみられた。
この早咲きの「河津桜」をみると心も癒される思いがした。 もうすぐ本格的な桜シーズンがやってくるので、今年はどこに見に行こうかと心もウキウキだぁ~~。

2016年3月6日日曜日

日野ひなまつり紀行

田舎に用事があり、そのついでに2月14日~3月13日まで開催されている「日野ひなまつり紀行」をみて歩いた。
ここ日野町は蒲生氏の城下町であり、また近江日野商人の故郷でもある。 日野町の大窪から村井にかけて昔ながらの町並が今も残り、どこか懐かしさを感じるそんな街角や商家、商店街に江戸時代から現代にいたるまでのお雛様や創作人形を はじめとする雛飾りが行なわれている。その中には日野独特の風景である桟敷窓ごしなどに江戸時代から現代に至るまでのお雛様や創作人形などが飾られている。日野を代表する商家・正野玄三家(現在:日野まちかど感応館・観光協会)には、代々伝承された江戸時代の御殿びなが公開され、見事な御殿びなに思わずため息がこぼれる。また、近江日野商人館(静岡県御殿場に出店して大成功した日野商人の名家であり、山中兵右衛門の旧宅の資料館)でも立派な雛飾りがみられた。 また、この商人館では典型的な日野商人本宅の特徴を示す建物や館内には初期の行商品や道中具、店頭品をはじめ、家訓などが展示され、日野商人の歴史と商いぶりなどがよくわかる館になっているので、改めて併せて見物した。
雛人形が一般家庭で飾られるようになったのは、高度経済成長期の40年代になってからというが、日野町では古くから雛人形を飾る文化が定着しており、旧商家を中心に江戸時代の雛人形が多いというのは、日野商人が全国的な商いで身につけた経済力や文化・教養等が秀でていたという証だそうだ。今回、はじめて桟敷窓から見えるお雛さまや各家庭に飾られているお雛さんをみて歩いて楽しむことができた。
桟敷窓(上の写真、左上)とは? 800年以上の歴史のある日野祭は御輿や曳山が町内を巡行して豪華絢爛で祭を家の中に居ながらにして見物できる様に仕掛けられた窓。通りに面した家の板塀を四角にくり抜いて、その窓に御簾(みす)を垂らし緋毛氈(ひもうせん)をかけて見物席をつくる。 年に一度の日野祭の為だけに桟敷窓をしつらえた家造りとなっている。 

2016年3月4日金曜日

江崎記念館


江崎グリコのルーツが見られる「江崎記念館」を訪れた。この記念館はJR塚本駅から徒歩約15分にある江崎グリコ㈱本社構内にあり、1972年3月、創立50周年事業の一環」として、従業員に創業の志を伝え、社業の発展に寄与するために設立されたもの。
この記念館では創業者・故江崎利一氏(1882~1980)が故郷の佐賀県薬種業の長男に生まれたこと。1919年春(37歳)有明海で浜辺で漁師たちが中国に輸出するカキを大きな釜で煮て、煮上がるとそれを捨てていた。その煮汁から健康によいとされるグリコーゲンを抽出し、病気の治療より予防に役立てようと考え、「グリコーゲンを一番必要としているのは育ち盛りの子どもである。それならば子どもが喜ぶ菓子の中にいれて嗜好品として売ったらどうか」と考えたという。健康なからだづくりがグリコの創業の原点だったこと。その製品名は、グリコキャラメルでは他の商品と区別する意味で「グリコ」にした。箱の意匠は当時森永キャラメルが黄色で、それにならって他の商品も同じ黄色だった。が、何とか目立つ色にとの思いで赤色にした。商標(ゴールインマーク)は自宅近くの公園で子どもたちが遊んでいる姿をみて閃いて、手を上げてゴールする姿にしたこと。キャッチフレーズ(一粒三百メートル)も体重40Kgの人が一粒で三百メートル走れることで決めた。などなど用意周到に決めて、1921年(大正10年)3月佐賀から大阪に居(曽根崎)を移し、1922年(大正11年)2月に三越にて栄養菓子グリコが売り出されたのがスタートである。
1927年(昭和2年)には、「食べることと遊ぶことは子どもの二大天職である」。この思いの下、「グリコ」とおもちゃはひとつだと考えて、おまけ付きおもちゃを発売(以来50億個を超す)、子どもたちの創造性を育み、日本の生活文化を語る証拠として多くの人たちに愛され親しまれている。ここでは創業時から現在までの約4000点のおもちゃが展示されていた。それ以外には製品や広告の歴史、おまけ付きおもちゃの歴史などが展示されていたし、創業者江崎利一を偲ぶ部屋もあった。今回、江崎グリコの創業のことなど広く学ぶことができた。