何十年ぶりに122代明治天皇伏見桃山御陵(写真上)、昭憲皇太后伏見桃山東陵(写真中)を参拝し、続けて50代桓武天皇柏原陵(写真下、参道入り口)を参拝した。約1時間の運動で森林浴も出来て運動不足を解消した。
1912年(明治45年)7月30日、明治天皇は東京の宮城・明治宮殿で崩御した。同年(大正元年)9月13日に東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)にて大喪儀が執り行なわれた後、翌9月14日に埋葬された。 陵の敷地の桃山は、豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地で、京都に墓所が営まれたのは明治天皇の遺言によるもの。すぐ東には皇后である昭憲皇太后の伏見桃山東陵が隣接する。また、桓武天皇の柏原陵にもほど近い。周囲一帯は宮内庁の管理地「桃山陵墓地」となっている。
2020年3月1日日曜日
2019年12月5日木曜日
勝龍寺城跡公園
長岡京市にある「勝龍寺城跡公園」を訪た。
この勝龍寺城は、戦国期まで三好三人衆の所領だったが織田軍の侵攻後、細川藤孝の居城となり、二重の堀や枡形虎口などを持つ堅固な城郭に改められた。
有名なエピソードとして、細川藤孝の嫡男の細川忠興とガラシャ(明智光秀の娘)が結婚式を挙げた場所、また明智軍対秀吉軍の山崎合戦で敗れた明智光秀一行が退却し、最後にここに籠城し一夜を過ごした場所でもある。
2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の放送を前に、展示内容を一新し、パネルや映像(約10分)で戦国の世を駆け抜けた細川藤孝(幽斎)・忠興・ガラシャ・明智光秀の4人の生涯に迫る!の展示もされていた。
来年の大河ドラマの影響で多くの人たちが訪れるだろうと思う。
ここは戸時代初期に廃城となる。主郭跡地は平成4年(1992)に勝龍寺城跡に造られた都市公園として「日本の歴史公園100選」にも選ばれている。 毎年11月の第2日曜日、玉の輿入れ行列の再現などによる「長岡京ガラシャ祭」がこの公園を中心に盛大に行われているとのこと。
この勝龍寺城は、戦国期まで三好三人衆の所領だったが織田軍の侵攻後、細川藤孝の居城となり、二重の堀や枡形虎口などを持つ堅固な城郭に改められた。
有名なエピソードとして、細川藤孝の嫡男の細川忠興とガラシャ(明智光秀の娘)が結婚式を挙げた場所、また明智軍対秀吉軍の山崎合戦で敗れた明智光秀一行が退却し、最後にここに籠城し一夜を過ごした場所でもある。
2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の放送を前に、展示内容を一新し、パネルや映像(約10分)で戦国の世を駆け抜けた細川藤孝(幽斎)・忠興・ガラシャ・明智光秀の4人の生涯に迫る!の展示もされていた。
来年の大河ドラマの影響で多くの人たちが訪れるだろうと思う。
ここは戸時代初期に廃城となる。主郭跡地は平成4年(1992)に勝龍寺城跡に造られた都市公園として「日本の歴史公園100選」にも選ばれている。 毎年11月の第2日曜日、玉の輿入れ行列の再現などによる「長岡京ガラシャ祭」がこの公園を中心に盛大に行われているとのこと。
2018年4月23日月曜日
石川県能登島ガラス美術館

和倉温泉の湯快リゾート「金波荘」で宿泊し、能登島にある能登島ガラス美術館に行った。ここは、1991年に開館した美術館であり、世界各国の現代ガラス作家の造形作品を中心に400点近くの作品を収蔵している。古今東西のガラス作品を紹介する企画展を開催し、ガラスを身近に楽しめるワークショップも行っている。屋外にもガラスのオブジェも展示してあり、高台から見渡せる七尾湾を背景に個性的な作品が展示されていた。美術館では季節ごとのイベントやワークショップなどが開催されているが、今回は21日から「ガラスの植物園」が始まっていた。ガラスの植物たちがいろいろと展示してありどのようにして作るのだろうか?不思議な感じの作品が多かった。下の写真がその一例で、館内は写真撮影禁止のため能登島ガラス美術館サイトから転載。
2017年7月6日木曜日
会社訪問「高橋金属㈱」
7月6日(木)14時~、2017年度会社訪問(工場見学会)が行われ参加した。
訪問先は高橋金属株式会社(〒526-0105 長浜市細江町864-4 http://www.takahasi-k.co.jp/)で、『私達の成長で世の中が良くなる会社に』を経営スローガンに掲げ、主に部品加工事業、環境商品事業を展開されている会社である。ここの会長は滋賀県立大学工学部の旧支援会の会長を務められ、また県短・県大のOBが14名も在籍されている、県大にとっても縁の深い会社でもある。
参加者は昨年に引き続き滋賀県立大学工学部機械システム工学科3回生の学生諸君のカリキュラムとしての工場見学の扱いでもあったので、計63名の大勢であった。
多人数での訪問であったが、事前の計画・準備が周到になされ、会社役員の挨拶、会社概要説明、3グループに分かれての工場見学、質疑応答などあり有意義な会社訪問(見学会)であった。
詳しい報告は、近日中に湖風会「工学部学友会」HPに掲載する。当日の写真はFacebookの湖風会「工学部学友会」に掲載されている。
2017年4月27日木曜日
長岡京市「勝龍寺城跡公園」
長岡京市の「勝龍寺城跡公園」を初めて訪れた。 堀の周辺のツツジも満開で城跡公園内もよく整備されてよかった(*゚▽゚*)
ここ勝龍寺城は暦応2年(1339)、足利尊氏の命により細川頼春によって築城された。 有名なエピソードとして、細川忠興とガラシャ(明智光秀の娘)が結婚式を挙げた場所、明智軍対秀吉軍の山崎合戦で敗れた明智光秀一行が退却した場所などがある。
戦国期までは三好三人衆の所領だったが織田軍の侵攻後、細川藤孝の居城となり、二重の堀や枡形虎口などを持つ堅固な城郭に改めた。戸時代初期に廃城となる。主郭跡地は平成4年(1992)に勝龍寺城跡に造られた都市公園として「日本の歴史公園100選」にも選ばれている。管理棟の2Fには資料展示室が設けられていて、城の歴史や細川忠興とガラシャの掛け軸など展示されている。 毎年11月の第2日曜日、玉の輿入れ行列の再現などによる「長岡京ガラシャ祭」がこの公園を中心に盛大に行われているとのこと。
ここ勝龍寺城は暦応2年(1339)、足利尊氏の命により細川頼春によって築城された。 有名なエピソードとして、細川忠興とガラシャ(明智光秀の娘)が結婚式を挙げた場所、明智軍対秀吉軍の山崎合戦で敗れた明智光秀一行が退却した場所などがある。
戦国期までは三好三人衆の所領だったが織田軍の侵攻後、細川藤孝の居城となり、二重の堀や枡形虎口などを持つ堅固な城郭に改めた。戸時代初期に廃城となる。主郭跡地は平成4年(1992)に勝龍寺城跡に造られた都市公園として「日本の歴史公園100選」にも選ばれている。管理棟の2Fには資料展示室が設けられていて、城の歴史や細川忠興とガラシャの掛け軸など展示されている。 毎年11月の第2日曜日、玉の輿入れ行列の再現などによる「長岡京ガラシャ祭」がこの公園を中心に盛大に行われているとのこと。
2017年2月24日金曜日
京の冬の旅「島原角屋」
「京の冬の旅」非公開文化特別公開(14ケ所)が1月7日から3月18日(土)まで行われていて、今回「島原角屋」と「壬生寺本堂・狂言堂」を拝観した。
門をくぐると新選組の刀傷が、また一階は台所及び居住部分がそのままの形で展示されていた。この一階の室内は、明るくするため多くのロウソクの燭台や灯油の行光が用いられ、油煙で天井や襖など室内が真っ黒で趣があった。今回、二階は非公開で見られなくて残念だった。この角屋は、揚屋として明治5年(1872)まで営業し、それ以降は茶屋業として昭和60年まで「松の間」にて宴会業務を行っていたとのこと。この「松の間」は、勤王派の久坂玄瑞や西郷隆盛、坂本龍馬などの密談にも使われたとのこと。また、新選組40数名の大宴会(1863年9月18日)が行われ、初代筆頭局長の芹澤鴨は泥酔になり、深夜屯所の八木邸で暗殺されるという歴史ある部屋でもある。そこから眺める「臥龍松の庭」(京都市指定名勝、下の写真の左下)は大変よかったヽ(;▽;)ノ
この角屋は、島原開設当初(1641年頃)から連綿と建物・家督を維持しつづけ、江戸期の饗宴・もてなしの文化の場である揚屋(あげや)建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定された。角屋は遊廓の店ではなく、今の料亭にあたる揚屋(あげや)という業種の店で、太夫や芸妓を抱えず、置屋から派遣してもらって、お客様に歌舞音曲の遊宴を楽しんでいくところ。揚屋は江戸時代、民間最大の宴会場で、遊宴のみならず、お茶会や句会なども行われ、文化サロンとしての役割も果たしていた。そのため、揚屋建築は、大座敷に面した広庭に必ず茶席を設け、庫裏と同規模の台所を備えていることを特徴としていた。江戸初期から中期までの揚屋は、間口が狭く、奥行きのある小規模の建物であったため、一階を台所および居住部分とし、二階を主たる座敷としていた。その二階へお客様を揚げることから「揚屋」と呼ぶようになったとのこと。
門をくぐると新選組の刀傷が、また一階は台所及び居住部分がそのままの形で展示されていた。この一階の室内は、明るくするため多くのロウソクの燭台や灯油の行光が用いられ、油煙で天井や襖など室内が真っ黒で趣があった。今回、二階は非公開で見られなくて残念だった。この角屋は、揚屋として明治5年(1872)まで営業し、それ以降は茶屋業として昭和60年まで「松の間」にて宴会業務を行っていたとのこと。この「松の間」は、勤王派の久坂玄瑞や西郷隆盛、坂本龍馬などの密談にも使われたとのこと。また、新選組40数名の大宴会(1863年9月18日)が行われ、初代筆頭局長の芹澤鴨は泥酔になり、深夜屯所の八木邸で暗殺されるという歴史ある部屋でもある。そこから眺める「臥龍松の庭」(京都市指定名勝、下の写真の左下)は大変よかったヽ(;▽;)ノ
この角屋は、島原開設当初(1641年頃)から連綿と建物・家督を維持しつづけ、江戸期の饗宴・もてなしの文化の場である揚屋(あげや)建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定された。角屋は遊廓の店ではなく、今の料亭にあたる揚屋(あげや)という業種の店で、太夫や芸妓を抱えず、置屋から派遣してもらって、お客様に歌舞音曲の遊宴を楽しんでいくところ。揚屋は江戸時代、民間最大の宴会場で、遊宴のみならず、お茶会や句会なども行われ、文化サロンとしての役割も果たしていた。そのため、揚屋建築は、大座敷に面した広庭に必ず茶席を設け、庫裏と同規模の台所を備えていることを特徴としていた。江戸初期から中期までの揚屋は、間口が狭く、奥行きのある小規模の建物であったため、一階を台所および居住部分とし、二階を主たる座敷としていた。その二階へお客様を揚げることから「揚屋」と呼ぶようになったとのこと。
2016年11月17日木曜日
「志賀直哉」の旧居

白樺派の文豪「志賀直哉」が昭和4年から9年間住んだという旧居(敷地435坪、建物134坪)が「春日大社」の南側上高畑町にあり訪れてみた。現在は奈良文化女子大学のセミナーハウスになっているが、有料で中を見ることができる。大正14年(1925年)、 京都・ 山科から奈良・幸町に居を移した志賀直哉は幸町の借家で4年間を過ごした後、この上高畑町に宅地を求めた。昭和3年に志賀直哉自身が設計したとされるこの旧居は和風、洋風、中国風の様式を取り入れ当時としては、大変進歩的で合理的なものであったようで、数奇屋作りの書斎はわざわざ京都から名大工を呼んで作らせたとのこと。ほとんどが当時のままで、あの「暗夜行路」はここで完成した。ここは静かで、しかも窓から若草山が借景になった庭が見え、最高の環境で執筆活動していたようだ。有名な高畑サロンと言われるところは、文化人や画家などの憩いの場となっていたようで、ここを訪れた人の名前、武者小路実篤、谷崎潤一郎、・・・と知った名前が書かれた額や写真も展示されていた。当時のここの情景が浮かぶようだった。
随筆「奈良」(志賀直哉全集7巻)の最後に「兎に角、奈良は美しい所だ。自然が美しく、残っている建築も美しい。そして二つが互いに溶けあってゐる点は他に比を見ないと云って差支えない。今の奈良は昔の都の一部分に過ぎないが、名畫の殘欠が美しいやうに美しい。御蓋山の紅葉は霜の降りやうで毎年同じやうには行かないが、よく紅葉した年は非常に美しい。5月の藤。それから夏の雨後春日山の樹々の間から湧く雲。これらはいつ迄も奈良を憶う種となるだろう」と書いているように志賀直哉が奈良が好きだったことがよくわかる気がした。
2016年7月7日木曜日
兵神装備㈱の会社訪問
この兵神装備㈱は企業理念「独自の難液移送技術と創意で、あらゆる産業社会のお役に立つ」のもと、顧客満足度を最大化に努められ 、難液移送技術と製造技術のエキスパートを追求する研究開発型企業として社会に貢献されている。モーノポンプのトップメーカーとして高収益経営(売上103億円、従業員372名、利益率20%強)をされている優良企業である。また、工場も綺麗だし社員重視の会社でもあった。
この会社訪問は2006年6月にスタートして早10年が経過した。会社訪問先は会員が経営さている会社や会員が勤めている会社を訪問し、その会社の経営概要、商品開発、製造方法などを学び視野を広げ、会員相互の交流のために実施している。
2016年3月4日金曜日
江崎記念館

江崎グリコのルーツが見られる「江崎記念館」を訪れた。この記念館はJR塚本駅から徒歩約15分にある江崎グリコ㈱本社構内にあり、1972年3月、創立50周年事業の一環」として、従業員に創業の志を伝え、社業の発展に寄与するために設立されたもの。


この記念館では創業者・故江崎利一氏(1882~1980)が故郷の佐賀県薬種業の長男に生まれたこと。1919年春(37歳)有明海で浜辺で漁師たちが中国に輸出するカキを大きな釜で煮て、煮上がるとそれを捨てていた。その煮汁から健康によいとされるグリコーゲンを抽出し、病気の治療より予防に役立てようと考え、「グリコーゲンを一番必要としているのは育ち盛りの子どもである。それならば子どもが喜ぶ菓子の中にいれて嗜好品として売ったらどうか」と考えたという。健康なからだづくりがグリコの創業の原点だったこと。その製品名は、グリコキャラメルでは他の商品と区別する意味で「グリコ」にした。箱の意匠は当時森永キャラメルが黄色で、それにならって他の商品も同じ黄色だった。が、何とか目立つ色にとの思いで赤色にした。商標(ゴールインマーク)は自宅近くの公園で子どもたちが遊んでいる姿をみて閃いて、手を上げてゴールする姿にしたこと。キャッチフレーズ(一粒三百メートル)も体重40Kgの人が一粒で三百メートル走れることで決めた。などなど用意周到に決めて、1921年(大正10年)3月佐賀から大阪に居(曽根崎)を移し、1922年(大正11年)2月に三越にて栄養菓子グリコが売り出されたのがスタートである。
1927年(昭和2年)には、「食べることと遊ぶことは子どもの二大天職である」。この思いの下、「グリコ」とおもちゃはひとつだと考えて、おまけ付きおもちゃを発売(以来50億個を超す)、子どもたちの創造性を育み、日本の生活文化を語る証拠として多くの人たちに愛され親しまれている。ここでは創業時から現在までの約4000点のおもちゃが展示されていた。それ以外には製品や広告の歴史、おまけ付きおもちゃの歴史などが展示されていたし、創業者江崎利一を偲ぶ部屋もあった。今回、江崎グリコの創業のことなど広く学ぶことができた。
2015年12月25日金曜日
大阪企業ミュージアム
大阪商工会議所創立120周年記念事業として平成13年6月に開設の「大阪企業家ミュージアム」において特別展として、没後130年企画として「大阪の恩人・五代友厚」展が開催(~2月17日)されている。NHKの朝の連続小説(朝ドラ)の「あさが来た」の五代友厚(ディーン・フジオカ)の影響もあって多くの来館者で賑わっていた。
主展示エリアでは、大阪を舞台に活躍した起業家たちのチャレンジとイノベーションを明治以降3角時代ブロック(第一ブロック:近代産業都市大阪の誕生、第二ブロック:大衆社会の形成、第3ブロック:豊かな時代の形成)に分けて紹介されている。イノベーションが行われた産業分野別に展示されており、起業家たちが、社会・経済の発展にいかに重要な役割を果たしてきたか知ることが出来る。この展示は2回目であるが、大阪を舞台に活躍した起業家は高い志、勇気、英知を持って取り組んで成功したか、改めてよくわかった。
大阪の恩人と言われる五代友厚は、実業界に転じて以降、大阪を本拠として活躍。金銀分析所の設立によって巨富を得、1873年弘成館(買収鉱山の統括機関)、1876年朝陽館(製藍工場)を設立するなど、大阪の産業の近代化に貢献。また大阪商法会議所、大阪株式取引所、大阪堂島米商会所、商業講習所(大阪市立大学の前身)の設立、指導に尽力し、大阪財界の組織化にも貢献した。
大阪の経済的発展、近代産業の開拓・移植などに果たした指導的役割は高く評価されているという五代友厚について学ぶことができたし、凄い人だったことがよくわかった。現在、北浜の大阪取引所の前に「五代友厚公」の銅像が立っている。
主展示エリアでは、大阪を舞台に活躍した起業家たちのチャレンジとイノベーションを明治以降3角時代ブロック(第一ブロック:近代産業都市大阪の誕生、第二ブロック:大衆社会の形成、第3ブロック:豊かな時代の形成)に分けて紹介されている。イノベーションが行われた産業分野別に展示されており、起業家たちが、社会・経済の発展にいかに重要な役割を果たしてきたか知ることが出来る。この展示は2回目であるが、大阪を舞台に活躍した起業家は高い志、勇気、英知を持って取り組んで成功したか、改めてよくわかった。
大阪の恩人と言われる五代友厚は、実業界に転じて以降、大阪を本拠として活躍。金銀分析所の設立によって巨富を得、1873年弘成館(買収鉱山の統括機関)、1876年朝陽館(製藍工場)を設立するなど、大阪の産業の近代化に貢献。また大阪商法会議所、大阪株式取引所、大阪堂島米商会所、商業講習所(大阪市立大学の前身)の設立、指導に尽力し、大阪財界の組織化にも貢献した。
大阪の経済的発展、近代産業の開拓・移植などに果たした指導的役割は高く評価されているという五代友厚について学ぶことができたし、凄い人だったことがよくわかった。現在、北浜の大阪取引所の前に「五代友厚公」の銅像が立っている。
2015年7月2日木曜日
「工学部学友会」の会社訪問
「工学部学友会」の会社訪問活動の一環として、今年度(第15回目)は、薄膜加工技術で高機能フイルム生産されている株式会社 麗光(日野工場)、バルブの専門メーカー 株式会社 オーケーエム様の2社を訪問し見学をさせてもらった。 昨年に引き続き滋賀県立大学工学部機械システム工学科3回生の学生諸君のカリキュラムとしての工場見学の扱いでもあり見学者が61名の大勢であった。そのため2つのグループに分かれての見学だった。多人数での訪問であったが、事前の計画・準備が周到になされスムーズに見学が出来た。
㈱麗光は日野第二工業団地にあり、はじめてクリーン度100クラス内での薄膜加工工程を見学、日野でこんな工場があったのかと感銘を受けた。
㈱オーケーエムは、㈱麗光から車で約10分のところに同じ日野町内にあり、今回2回目(2007年に訪問)の訪問であった。 改めてバルブの専門工場として頑張っておられる様子を感じた。
2014年7月10日木曜日
㈱片岡製作所の工場見学

「工学部学友会」の会社訪問活動の一環として、今年度(第14回目)は、レーザ加工システム、電池検査システム・二次電池製造システム、太陽電池製造装置、液晶製造装置などで顕著な業績を挙げられているオンリーワン企業の株式会社 片岡製作所様を訪問し見学をさせてもらった。 昨年に引き続き滋賀県立大学工学部機械システム工学科3回生の学生諸君のカリキュラムとしての工場見学の扱いでもあり見学者が66名の大勢であった。多人数での訪問であったが、事前の計画・準備が周到になされ4グループに分かれて効率的な見学が出来た。片岡社長から会社の概要、製品紹介、経営方針、更には学生諸君に向けて期待など約30分の話があった。その中でGlobal Niche Top(GNT企業、世界の規模の小さい隙間市場において、圧倒的なシェアを誇る企業のこと)を目指していると明確な指針というか目標を示されていた。工場の見学及び同社の製品を見たとき、同社の固有技術の高さは誰の目にも明らかと感じ、加えて経営トップの強い信念に基づくリーダーシップがあれば、必ずや近い将来GTP企業に名を連ねられると感じた。(現在京都府では(株)堀場製作所、TOWA(株)、(株)イシダの3社などあり) 世界のトップレベルまで技術を進化された片岡社長のリーダシップはスゴイ!と感じた。よい勉強になった。㈱片岡製作所の詳細はこちら
2014年4月9日水曜日
「あべのハルカス300」へ
なんば高島屋で「きらめく日本画コレクション」を観て、運動を兼ねて「あべのハルカス」まで約45分のウオーキング。 「ハルカス300」へは当日券を2階のチケットカウンターで約10分待ちで購入、まず同じ2階にあるエレベーター「ハルカスシャトル」で16階へ、少し歩いて入場口がありチケットを読み取らせて、エレベーター「ハルカスシャトル」に乗り約45秒でいっきに60階へ。 着くとそこは地上300mの天上回廊ダ! 東西南北360度に足元から天井までのガラス張りの屋内回廊、空中を散歩しているような感覚が体験できて、お~~すごいなぁ~と驚く感じダ(◎_◎;) この日は霞んで、明石大橋、関空など遠くがはっきりと見えなかったが、大阪市街は一望できた。降りるのは59階のエレベーターで、この階には「SHOP HRUKAS300」もあってグッズなど売られていた。58階は上空までの吹き抜け構造で、外気を肌で感じることができる屋外広場になっていて、くつろぎながら外の景色を楽しむ癒しの空間になっている。ここでは飲食もできて、飲食しながら景色を楽しむ人たちが多く見られた。 また、ここには軽食のレストランもあった。(写真の上は、60階の天上回廊、下は58階の屋外広場での記念写真)
2014年2月18日火曜日
JR弁天町「交通科学博物館」へ
環状線JR弁天町駅下車1分のところにある「交通科学博物館」へ。 当館は1962(昭和37)年に「交通科学館」として開館し、52年目を迎える4月6日に閉館となるので入館し楽しんダ。 閉館と正式に発表されて以降、多くの見物者で賑わっているとの情報があり、この日も幼児を連れての母親や祖父母が孫(幼児)を連れてとか、閉館を惜しむ鉄道ファン?最後の見納めとかで、館内は大変賑わっていた。 展示概要は常設のリニアモーターカー関連展示、新幹線1号車(0系新幹線電車)、電気・蒸気機関車、昔の自動車、バイクなどの実物の展示や221系電車の運転士と同じ体験が出来るシミュレータ、模型鉄道パノラマ室でのミニチュア鉄道など、子どもを連れていけば結構喜ぶし、楽しめるところだった。 また、特別イベントとして約半世紀の間、移り変わる交通体系の中で、当館がどのように変化し続け、博物館活動を行ってきたかを振り返り紹介する「交通科学博物館さよなら企画展PART2「52年の軌跡展」もあった。 この館も時代の移り変わりと新しい車両の展示にも追いつけず?年々入場者数が少なくなり赤字が続き閉館せざるをえなくなったのだろう、少しザンネンダ。 これらの展示物は、2016年春に新しく開館する日本最大級の「京都鉄道博物館」(現「蒸気機関車館」のある梅小路公園)に移設されるとのこと。 また、楽しみに待ちたい。2013年9月19日木曜日
パナホーム本社工場を見学
パナホーム本社滋賀工場(第一・二・三・四地区)は、琵琶湖の東近江市に位置し設立は1969年10月、敷地10万坪に製造・物流・商品開発・技術研究・人材開発部門があり、今年で創業50周年を迎えた。第三地区の工場はパナホームの外壁パネルを完成する「外壁パネルライン」「屋根パネルライン」「ロール成形ライン」「床パネルライン」があり、外壁パネルに戸や網戸などを取り付け、一邸ずつ完成し出荷される工場を見学した。また、バスで第二地区に移動して、住宅試験センターで住宅まるごと試験する装置(防水試験、熱・水の繰り返し試験、地震再現装置による水平圧力試験など)やセルフ洗浄機能のあるパナホームの外壁と加工のない外壁との比較実験、大型台風の風速30mの体感、地震体感コーナーでは起震ルームで震度3および震度7の体験もした。エコライフパーク(住宅展示場)では6棟の先進技術を結集した住宅(価格1億円するという住宅など)を見学した。広大な敷地にパナホームのプレハブ住宅を生産する工場を初めて見学して、改めてその規模に驚かされた。今は消費税アップに伴う駆け込み需要で、工場はフル生産が続いているとの嬉しい悲鳴が聞けた。写真はバス1号車の人の記念写真。
OB会の「社会見学会」に参加
OB会(松愛会枚方北支部)の2013年「社会見学会」が行われ、昨年に引き続き参加。今回はUCC滋賀工場、パナホーム本社(滋賀)工場の見学と湖東三山の一つ百済寺の散策。樟葉駅前に94名が集合し、バス2台で出発した。
2階のシアタールームで滋賀工場やジャマイカと米国ハワイ州にある直営農園などの概要を7分程度の映像をみてから工場案内が始まった。2班に別れて、まず秘密基地を思わせる扉(セキュリティーゲート)をくぐると2階からガラス越にみる見学通路があり、まずコーヒーの抽出・調合工程、リキャップ缶充填自動ラインなどの概要をモニターでみながら見学した。また、品質管理室とモニターを通して検査員による官能検査、外観検査など検査方法の説明や検査員との直接応答もできるようになっていた。一通り見学した後は、100%レギュラーコーヒー(UCCコーヒー)と濃縮エキスによるコーヒーとの「飲み比べ体験」があり、匂いを嗅いで2種類のコーヒーを味わい、100%レギュラーコーヒーはどれかと言う味覚テスト。参加者の内70%前後の人が正解だった。シアタールームに戻り、巨大なコーヒー缶の形をしたフォトシステム(プリクラ)で滋賀工場のシンボルマークのジャンボコーヒーカップなどを背景にしての記念写真や100%レギュラーコーヒーのアイス、またはホットを各人が注文して見学後のひと時を過ごした。
2013年7月4日木曜日
山科精器㈱の工場見学

「工学部学友会」の会社訪問活動の一環として、今回、栗東市にある山科精器㈱を訪問。参加者は滋賀県立大学機械システム工学の3回生と学友会メンバーの計64名。参加者が多いため講演は2グループ、工場見学は4グループに分かれてあった。講演では山科精器㈱代表取締役社長からプロジェクターで会社紹介、県立大生の若者に伝えたいことの1~7項目、社長の小史、山科精器㈱の取り組みとその事例の紹介など約50分。工場見学では各部長による概要説明、まず油機事業部→メディカル事業部→工機事業部→熱交事業部だった。主力商品は船舶関連を中心にした工作機械、熱交換器、ディーゼンエンジンの循環機器などで、船舶に関連する機器に高い開発製造力があるようだ。その中で9年前から全く違ったメディカル分野にも進出されているのには驚いた。社長の1つの趣味?とも言われていたが、血液・体液の吸引管や細胞分離装置などに成果が出てきているようだ。
1939年(昭和14年)山科精器研究所を設立しマイクロメーターの製造を開始し、1868年(昭和43年)に、この栗東市に本社工場を移されて今日に至っている。大変自然環境に恵まれたよい会社だった。
2013年6月20日木曜日
朝日新聞社大阪本社を見学
朝日新聞の愛読者、新しく出来た中之島フェステバルタワーに旧朝日新聞社ビルから移転した機会に見学を申込み実現した。見学は午前11時と午後1時半の2回あるが、午後は団体で特に小学生の見学が主らしく、個人は11時からだった。今回の参加者はたったの4名(男性3名、女性1名)でさびしい見学会、午後は40名程度の団体とのこと。11時10分前に中之島フェステバルタワーのスカイロビー13階の朝日新聞社の受付へ、見学案内の50代?男性の迎えがあり12階・アサコムロビーへ。まず、見学記念の号外新聞の写真撮影→アサコムホールで朝日新聞社の概要をプロジェクターを使って約25分説明→11階の12局ある編集局を中心に10階から12階を見学した。所要時間は約1時間20分。 11階は仕切りのない大フロアーで、編集記者の人たちが働いている姿を見ることが出来たし、その中に朝日放送(ABC)のスタジオもありアナウンサー席、遠隔操作のテレビカメラやライトなども見ることが出来た。ここ11階で編集された新聞のデータは、新しく出来た凸版印刷と共同で建設し、1月からフル稼働している大阪工場(大阪市福島区海老江3丁目)に高速転送されて印刷される。ここでは朝刊(40ページ)を1時間に8万部印刷できる最新の輪転機が5セットあり、朝日新聞の工場で最大規模を誇るとのこと。ここもぜひ訪れてみたいものだ。
お土産として本日朝刊の記事を使って、TOP(頭)に撮影した全身写真の入った「見学記念の号外」(A3サイズ)、朝日新聞社のネーム入りの鉛筆、消しゴムなどだった。
2013年5月29日水曜日
小林一三記念館、池田城跡公園へ

インスタントラーメン発明記念館から徒歩約20分にある「小林一三記念館」へ。この記念館は、阪急電鉄の創始者(起業業家)・小林一三氏が鉄道事業だけでなく、土地開発、宝塚歌劇・映画・演劇・日本初のターミナルデパート等ユニークな事業を数々生み出し、商工大臣、復興院総裁など政界にも進出。多方面で活躍した小林氏の華麗なる軌跡を当時の資料・写真・映像・ジオラマ等で紹介し、逸翁(雅号)が構想を練った書斎等、旧宅跡も公開されている。また、茶人としての逸翁が工夫を凝らした茶室・庭園・邸宅レストラン「雅俗(がぞく)山荘」で食事を楽しむことのできる。今までに無い新概念の記念館で、「雅俗山荘」「即庵」「費隠」「長屋門」「塀」の5つは国の登録文化財となっている。小林一三氏については、それなりに知っていたが、これだけ多くの事業を起こし社会貢献したたスゴイ人だったことを改めて知ることができた。 ヽ〔゚Д゚〕丿スゴイ~の一言につきる。
(写真の上が「雅俗(がぞく)山荘」で、1階はレストラン、2階は居住当時の状態に復元され、往時を偲ぶことが出来る。、中の写真は記念館の入り口で長屋門)
その後、徒歩約5分にある池田城跡公園に立ち寄った。この池田城は室町時代から戦国時代にかけ、池田市域一帯を支配していた地方豪族・池田氏の居城で、この城の歴史を後世に残しつつ活用するために整備されたのが「池田城跡公園」。
インスタントラーメン発明記念館へ


以前から一度訪れたいと思いながら、なかなか行く機会がなかったが、うまく時間も取れたのでインスタントラーメン発明記念館、併せて小林一三記念館、池田城跡公園へも出かけた。まず、「インスタントラーメン発明記念館」は阪急池田駅から徒歩約7分、1958年8月25日、安藤百福氏が大阪府池田市の自宅裏庭に建てた小さな小屋でありふれた道具を使って日夜研究を重ね、チキンラーメンを発明した地にある。年間60万人が訪れるだけあって平日であるが外人(台湾・中国人など)も含めて多くの入場者で賑わっていた。この発明館は、展示室に入ると、まず最初に開発当時に自宅裏庭に建てた小さな小屋とその道具が再現されていたし、インスタントラーメンの歴史や変遷、安藤百福氏の軌跡、「チキンラーメンファクトリー」や「マイカップヌードルファクトリー」といった体験工房などインスタントラーメンに関するさまざまな展示があり、楽しむことができた。また、その発明・発見の大切さも改めて学ぶことが出来た。
「マイカップヌードルファクトリー」は、カップめんの製造工程がわかる体験工房で、自分でデザインしたカップに好きなスープと具材をトッピングして、世界でひとつだけの「カップヌードル」を作ることができるのところで、体験(300円)してみた。\(^^@)/
安藤百福氏のこの発明は、「すべては『食足世平(しょくたりてよはたいらか)』から始まった」という。すごいなぁ~の一言につきる!ヽ〔゚Д゚〕丿スゴイ
(写真:上は記念館の外観、中はインスタントラーメントンネルで発明品から現在までのラーメンを展示、下は自宅裏庭に建てた小さな小屋)
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