2019年9月30日月曜日

司馬遼太郎「夏草の賦」

今までゆっくりと時間が取れないこともあって、本を読むことが少なかったが、谷崎潤一郎「痴人の愛」に引き続いて歴史小説である司馬遼太郎「夏草の賦」を読んだ。
これは長曾我部元親の一生涯で、長曾我部家が滅亡するまでが描かれている。
あらすじは、僻遠の地である土佐に生まれた長曾我部元親は、織田家に仕える斎藤利三の妹であり、織田家中でも随一の美貌といわれた菜々を娶る。この頃まだ数郡を切り取った小領主にすぎない元親は、菜々の縁もあって同じく中央で新興勢力として台頭しつつあった織田信長と誼を結び、土佐の平定を果たした元親はいよいよ天下統一の野望を抱き、四国を破竹の勢いで侵略する。ところが、既に京を押さえて天下の趨勢を握った同盟者の信長にとって、四国はもはや征服すべき対象でしかなくなっており、武田氏、上杉氏、本願寺といった難敵の脅威が去るや否や懐柔策から一転、長曾我部家に対して強硬な姿勢に出る。しかし、明智光秀によって本能寺の変が勃発し、信長は道半ばで倒れる。 明智光秀が信長を討ったわずか11日ののちに羽柴秀吉によって討たれ、さらに秀吉は柴田勝家を滅ぼして信長の後継者の地位を固める。秀吉は、かつて信長がそうしようとしたように、ようやく四国の平定を果たした元親を屈服させるべく大軍を送り込む。 再び存亡の危機に立たされた元親は徹底抗戦で玉砕する道を選ぶが、刃折れ矢尽き、ついに家臣の説得に応じて秀吉の軍門に降る。 彼が半生をかけて切り取った領土は土佐一国を除いて召し上げられ、また秀吉という人物に直接触れることでその器の大きさを思い知らされた元親は、彼の野望に幕を下ろした。
その後、元親は秀吉から九州征伐の先陣を命じられるが、島津勢と戦い四国勢は奮戦むなしく元親の嫡子である弥三郎(信親)、十河存保が討死、元親は危うく落ちのびる。最も期待をかけていた嫡男・信親の死、それに追い討ちをかけるように訪れた愛妻・菜々の死によって元親は往年の覇気を完全に失ってしまう。そして、彼が生きる気概を無くしたことは、長曾我部家そのものが指針を失うことをも意味していた。そのまま迷妄状態の元親によって跡継ぎに定められた盛親は元親の死後、関ヶ原の戦いで判断を誤り、やがて大坂の陣の終結をもって長曾我部家は滅亡する。

2019年9月29日日曜日

殿二小学校の運動会


孫娘(小学一年生)の運動会が行われた。午前5時に場所取りに並び(3人目)、途中(6時20分頃)に娘婿と交代して場所取りをした。7時の開門があり、その時は約100人?が並んでいた。
2日程前の天気予報では、曇りで雨降りとのこと、延期になるのではないかと心配した。が、前日になると朝方は少し雨が降るとの予報であったが、当日の5時頃は少し雨がパラついた程度で所々に晴れ間も広がり、始まる9時頃にはほぼ快晴になった。
そのため日中は気温もめちゃ上がり暑い々運動会となった。
小学校の運動会も30数年振りで、元気な子たちの姿をみることが出来た。

2019年9月28日土曜日

和菓子「たねや」

妹が和菓子「たねや」のラ コリーナ近江八幡に行きたいとのことで、田舎(日野)から出かけた。一通り見物してお茶にしようとカフェーに行くと土曜日であり満席で長時間並ばないと入れない。そのため帰りに同じ「たねや」の八日市の杜に初めて立ち寄って、お茶(カフェオレ)をした。値段も結構高いが森の中にあり雰囲気がよくて落ち着けてよかった。お土産はたねやのバームクーヘンを買った。

2019年9月27日金曜日

新スズキアルトで田舎

3月29日、新スズキアルトを購入し、約6ケ月が過ぎたが保育所の送迎や近場での利用だけで約930Kmしか乗っていない。
今回、初めて田舎(滋賀日野、往復約160Km)に乗って出かけた。前のアルトと比べると燃費も良くて(約40%アップ)、乗り心地は大して変わらないが、軽としてはまぁ満足だった。

2019年9月18日水曜日

何十年振りの抹茶のかき氷

FBのお友達のKさんが、枚方では有名なかき氷屋さん(枚方駅から鍵屋へ行く途中)へ行って、抹茶ミルクを食べて美味しかったとの情報(投稿)があったので、関西医大枚方病院の帰りに立ち寄って、何十年振りだろうか抹茶のかき氷を食べてきた。暑かったこともあり美味しかった。店内には女子高校生3人が美味しそうに食べながら話し合っていた程度で空いていた。営業は暑い日が続く10月中旬までとのこと。

2019年9月15日日曜日

敬老の日の感謝状

敬老の日に小学一年生と保育所年中組の孫娘から感謝状をもらった。小学校の学童、保育所の迎や小児・歯科への送り、おもりなどといろいろと大変ではあるが、もらうと嬉しいものである。

2019年9月14日土曜日

谷崎潤一郎記念館

「ヨドコウ迎賓館」を見物した後、芦屋市谷崎潤一郎記念館(1988年、昭和63年開館)を訪れた。
明治19年(1886年)東京日本橋に生まれ、37歳で関東大震災に遭い関西(当初芦屋市)に移住、以来主に阪神間と京都で33年間にわたって生活、70歳で京都の家を売却し関西の生活を終え、熱海にて生活する。79歳(1965年7月30日)で腎不全から心不全を併発して、神奈川県湯河原町の自宅で死亡。執筆作品は、24歳でデビュー作の「刺青」、関西移住して最初の「痴人の愛」や有名な「細雪」「鍵」「瘋癲老人日記」などがある。
随分昔に1~2冊(「鍵」など)を読んだ記憶があるし、「細雪」の芝居を観たりした。が、何か読んでみたいと思い、帰りに関西での最初の『痴人の愛』(1924年出版)を図書館で借りて読んでみた。 この『痴人の愛』は私小説というジャンルに属する小説で、「著者が直接経験した出来事を素材にして書かれた小説」のことを指すもの。
主人公河合譲治はお金にも苦労せず、生活に不満のない平凡なサラリーマン生活を送っていた。そんなある日、譲治は偶然立ち寄ったカフェでナオミ(奈緒美)と出会う。ナオミは当時15歳で譲治は28歳であった……、で始まるこのナオミのモデルは、谷崎潤一郎の最初の妻千代の妹である小林せい子という人物がモデルになっているとのこと。そして、親友の詩人佐藤春夫をも巻き込んでの四角関係の背景があり、1人の男性が女性の美に服従し、隷属して行く過程を描いた小説であった。久しぶりに谷崎潤一郎の力作に触れることが出来た。

ヨドコウ迎賓館

芦屋市にある「ヨドコウ迎賓館」に出かけた。この迎賓館は旧帝国ホテルなどを設計したアメリカの近代建築家フランク・ロイド・ライトの手による建物(1918年に設計、1924年に建築)で、ライトの住宅建築としては日本で唯一、ほぼ完璧な形で現存する。新聞報道によると最近、アメリカにてライトの手掛けた建築物が世界遺産登録への動きがあり、この迎賓館もその一つとして注目されているとのこと。
元々は灘の酒造家・山邑太左衛門の邸宅であったが、のちに淀川製鋼所の所有となり、「ヨドコウ迎賓館」と呼ばれるようになった。ライトは「有機的建築」を理想として、周囲の自然と調和するように建物を設計したという。2階の応接室には、ライト建築の見どころが凝縮されていて、壁の一部に大谷石が用いられ、細かな幾何学的模様が彫り込んであるなど随所にライトのこだわりが感じられる。窓につけられた「飾り銅板」は植物の葉をモチーフとして、光が木漏れ日のように透ける仕組みになっている。また、日本の湿度の高さを意識して、天井にはドアの形をした通風孔がたくさん設けられている。全体的に窓が多く、外の風景や山並みが楽しめるつくりになっている。
3階西側廊下の窓や欄間には、植物の葉をモチーフとした飾り銅板が多く使われている。光を多く取り入れたい場所では銅板に透かしを入れ、木漏れ日が落ちるような演出をほどこしている。銅板の色は緑に近づけるため、緑青(ろくしょう)というサビをわざと発生させるなど、細部へのこだわりが感じられ、光に透ける美しい影が見事。
4階のバルコニーに上がると絶景が広がって、遮るもののない山に建物があることを活かした設計で、芦屋の町はもちろん大阪湾までも見通せるようになっている。
「ヨドコウ迎賓館」は阪急電鉄「芦屋川」駅から歩いてわずか10分、JR芦屋からは約16分の距離にある。「ヨドコウ迎賓館」は美しい建築だけでなく、立地をいかした眺望も魅力的であった。

2019年9月8日日曜日

ナルク枚方拠点「天の川クラブ」HP

6月30日に湖風会「工学部学友会」HPのリニューアル版(スマートフォン画面対応)を正式にアップして、9月8日、第2弾としてNPO法人ナルク枚方拠点「天の川クラブ」のHPのリニューアル版を正式にアップした。
このリニューアル版は、念願のスマートフォンの画面に対応したもので、やっと出来上がった。すごく時間もかかったが、やりがいもあって達成感も味わった。
次はWordPress(ワードプレス)によるWebサイト(HP)を独学で構築して立ち上げることであるが、時間がかかるだろうがボケ防止のためにも頑張ろう!
写真の左がスマホで見た場合の画面、右がPC・タブレットで見た場合の画面。

2019年9月5日木曜日

敬老ふれあいコンサート

枚方市立阪保育所にて敬老のふれあいコンサートが行われて、孫娘(次女の娘)が年中(4歳児)組で出ていたので初めて家内と一緒に聴きに出かけた。
おじいさん、おばあさんが89名集まって孫の歌を楽しみに来ていた。
今回、プログラムは、0歳児、1歳児。2歳児、3歳児、4歳児、5歳児が、それぞれ手遊びしたりうたを歌ったりした。0~1歳児の幼児は、先生に抱っこしてもらっていたり、泣いたり、歌わずに立っている幼児、終わるとおばあちゃんもとに飛んで来たりする幼児など様々だった。愛嬌もあってよかった。年齢が上がるにしたがって歌もちゃんと歌えてコンサートらしくなっていた。