11月15日は坂本龍馬の命日で、最後の隠れ宿であった「酢屋」(河原町三条下る)で追悼祭と龍馬追悼展が行われていた。「酢屋」の前には祭壇が設けられお供え物やお花で飾られて追悼式が行われたようである。2時頃に行ったので、すでに終わっていた。
2階の龍馬ギャラリーの追悼展では、龍馬愛用の煙草盆、きょうそく、海援隊日記、乙女姉宛ての最後の手紙などが展示され、当時のままの部屋の様子などを見て当時を偲ぶことが出来た。
今から丁度149年前の1867年11月15日、龍馬と慎太郎は醤油商近江屋の母屋2階にて密談中であった。午後9時過ぎ、何者かが龍馬に面会を求めてやってきた。そして、彼らは取り次ぎにでた下僕の山田藤吉(滋賀県三井寺町の出身で龍馬の世話役・用心棒)のあとから近江屋に潜入、龍馬のいる2階に向かった。二人の刺客は2階に上がるとまず藤吉を斬殺。龍馬らの座敷に乱入し、いきなり龍馬、中岡に斬りかかった。龍馬は額を真横に斬られ、ほとんど即死。中岡は数十箇所に傷を受け、2日後に絶命した。 龍馬と慎太郎、藤吉は17日に近江屋で葬儀が行われ、東山霊山護国神社横の墓地に埋葬された。
この「酢屋」は享保6年より現在まで続く材木商。今年でちょうど開業から290年。 幕末当時、六代目酢屋嘉兵衛は材木業を営む傍ら、角倉家より高瀬川の木材独占輸送権を得て、運送業をも掌握していた。家の前は高瀬川の船入りで、各藩の折衝や伏見そして大坂との連絡の地に格好の地であったため、坂本龍馬は1867年6月初旬から「酢屋」を海援隊京都本部とし、自らも身を寄せた。 酢屋嘉兵衛も龍馬の活動に大変理解を示し、命懸けでその活動の援助に力を注いだという。さてその坂本龍馬、酢屋では「才谷さん」と呼ばれ、二階の表西側の部屋(写真の左の部屋)に住み込んでいた。 今でこそ酢屋の前は飲食街が立ち並んでいるのだが、当時は高瀬川の舟入になっており、龍馬が2階の格子から向いの舟入にむけて銃の試し撃ちをしていたともいわれている。24日にはこの酢屋の2階において朝6時から、出格子から差し込む明かりを頼りに畳に紙を置いて長さ5mにも及ぶ手紙を高知の乙女姉に宛てて書き、酢屋に投宿している旨などを伝えている。(これが乙女宛ての最後の手紙となった。) 龍馬暗殺があった近江屋にもこの酢屋から海援隊隊士が駆け付け情報収集したのであろう、暗殺者が3人であり龍馬がほぼ即死であったこと、16日には下男藤吉が絶命、翌17日には陸援隊隊長中岡慎太郎絶命、その後神式で葬儀が執り行われ霊山護国寺に埋葬されたことなどが海援隊日記に克明に書き込まれている。
2016年11月15日火曜日
2010年2月16日火曜日
坂本龍馬がいた街
坂本龍馬がいた洛中(木屋町・河原町)を散策してみた。まず、坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺された河原町の大通りの旧近江屋、現在はコンビニになっていたが石碑と案内板が立っていた。(写真)当時(1867年11月15日)龍馬と慎太郎は醤油商近江屋の母屋2階にて密談中であった。午後9時過ぎ、何者かが龍馬に面会を求めてやってきた。そして、彼らは取り次ぎにでた下僕の山田藤吉(滋賀県三井寺町の出身で龍馬の世話役・用心棒)のあとから近江屋に潜入、龍馬のいる2階に向かった。二人の刺客は2階に上がるとまず藤吉を斬殺。龍馬らの座敷に乱入し、いきなり龍馬、中岡に斬りかかった。龍馬は額を真横に斬られ、ほとんど即死。中岡は数十箇所に傷を受け、2日後に絶命した。 龍馬と慎太郎、藤吉は17日に近江屋で葬儀が行われ、東山霊山護国神社横の墓地に埋葬された。
その後、河原町から少し入った近江屋に移る前に住んでいたとされる材木商「酢屋」(現在も「酢屋」として残っていた)に行った。2階には龍馬が住んでいたとされる部屋と関連資料が展示されているとのことだったが500円が必要で今回はやめた。次は池田屋騒動の址→長州藩屋敷跡(桂小五郎の像)→幾松(桂小五郎と幾松の寓居址で現在も残っていた)に行った。
今から143年前の龍馬の足跡(洛中)を追ってみて、NHK大河ドラマ「龍馬伝」がより楽しめると思う。
2010年1月24日日曜日
霊山歴史館の大龍馬展へ
1月3日~5月5日大龍馬展「龍馬誕生・夢」が開催されている霊山歴史館へ観に行った。この歴史館は、全国唯一の幕末・明治維新の専門歴史博物館として昭和45年(1970)に開館。江戸中期以降、とりわけ天保期後の諸藩志士をはじめ朝廷、公卿、諸侯、藩主、文人、画家など重要人物の遺墨、詩文、遺品、書状や各種資料・文献などの収集、調査、研究、公開展示を行っている。収集資料は5000点を超え、公開展示は約100点を選んで常設展が行われている。今回はNHKの大河ドラマ「龍馬伝」の放送に伴い2010年 年間特別展として開催されていた。
京都霊山護国神社参拝
京都霊山護国神社に参拝して、霊山墓地にある「坂本龍馬・中岡慎太郎の墓」にお線香とロウソクの火を灯し参拝した。日曜日でありNHKの「龍馬伝」の影響もあり多くの参拝者があった。暗殺された1867年11月15日みぞれの降る夜、かくれ屋の材木商酢屋から移った京都河原町の醤油商近江屋母屋の二階で龍馬と慎太郎は密談中だった。現場状況は午後9時過ぎ、何者かが龍馬に面会を求めてくる。そして彼らは取り次ぎにでた用心棒の山田藤吉のあとから近江屋に潜入、龍馬のいる二階に向かった。二人の刺客は二階に上がるとまず藤吉を斬殺。龍馬らの座敷に乱入し、いきなり龍馬、中岡に斬りかかった。龍馬は額を真横に斬られ、ほとんど即死。藤吉は翌日、中岡は数十箇所に傷を受け、事件直後に駆けつけた谷干城に襲撃の様子を語ると、2日後に絶命した。葬儀はこの近江屋で行われこの地に埋葬(3名)された。暗殺説には次の4つあるが、本当のことは謎のままであるらしい。
1)新撰組隊士説(暗殺現場には2つの有力な証拠の刀と下駄が残っていたため)
2)幕府見廻り隊士説
1)新撰組隊士説(暗殺現場には2つの有力な証拠の刀と下駄が残っていたため)
2)幕府見廻り隊士説
この説がもっとも有力で、その理由は次の通り。当時、京都には新撰組ほかに、もう一つ幕府に属する警察組織があった。京都見廻り組である。明治2年旧幕府軍のなかから龍馬暗殺の犯人と称する人物が現れた。元見回り組隊士今井信郎である。今井は明治政府の取り調べに対して、隊長佐々木唯三郎はじめ、見廻り組7人で襲撃したと供述。さらに明治44年、同じ元見回り組隊士渡辺篤も暗殺を告白。遺書の中に龍馬に斬りつけた様子を詳しく書き残している。この2人の証言は刺客の人数、襲撃のメンバーの名前など様々に食い違っているため疑問が残るが供述は具体的である。
3)薩摩藩説、黒幕は西郷隆盛か?大久保利通か??
4)龍馬が死んで利益を得る人物、後藤象二郎(土佐藩士)の説
中岡が残した証言によると犯人は「こなくそ」と言ったそうである。「こなくそ」とは四国の方言で「この野郎」という意味。同じ土佐藩士の仕業か? であるが、今暗殺説は幕府京都見廻り組が最も有力であるとのこと。
3)薩摩藩説、黒幕は西郷隆盛か?大久保利通か??
4)龍馬が死んで利益を得る人物、後藤象二郎(土佐藩士)の説
中岡が残した証言によると犯人は「こなくそ」と言ったそうである。「こなくそ」とは四国の方言で「この野郎」という意味。同じ土佐藩士の仕業か? であるが、今暗殺説は幕府京都見廻り組が最も有力であるとのこと。
今日、坂本龍馬という人物を尊敬している人は多い。日本を大きく動かし、将来を見ることなくその生涯をとじたが、11月15日は惜しくも龍馬33歳の誕生日であった。写真は向かって左が龍馬、右が慎太郎のお墓で、龍馬の左には山田藤吉の墓もある。
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