2016年12月31日土曜日

有難うございました

ブログ「E(え)ちゃんの気ままな日記」をご覧いただいている皆様へ
今年も余すところ数時間となりましたが、いつもこのブログを見ていただき、誠に有難うございます🙏  
まじめな文面?で、あまり面白味がないかなぁ~~(笑)と思いながら投稿してきましたが、このブログを2008年に開設して以来、過去最高の124件(昨年120件、平均3日に1件)の投稿をすることができました🙆
これもひとえにご覧いただいている皆様の励ましもあったことも大きかったと改めて厚くお礼申し上げます。有難うございました 🙏
来年も引き続きよろしくお願い申し上げます🙍 

2016年12月30日金曜日

レトロな日野駅舎

 近江鉄道日野駅は1916年に建てられ(初代の駅は1900年、現駅が1916年で二代目)、今年で100年を迎え、現存する木造駅で100年を越える数少ない駅のひとつ。その味わい深いレトロな駅は、映画のロケやテレビ放映でも多く使われ、住民と鉄道ファンからこよなく愛されているという。しかし、長い年月によって老朽化がすすみ、このままいけば簡単な駅に建て替えが余儀なくされ、なつかしさや愛着のある駅が消えてしまうため、まちのシンボルである駅の存続に危機感を抱いた日野町と地元住民が、寄付金を募る「近江鉄道日野駅再生プロジェクト」を立ち上げ、近江鉄道に協力を呼びかけて、再生修復工事をおこない、今の姿を100年先の後世に残そうというもの。今の駅舎を今のままの姿に再生する工法となり、具体的には昭和49年の日野駅の写真をモデルにするという。工事の完了予定日は平成29年9月頃で、約4千万円の目標で寄付金の募集が今月から始まった。
本日、改めて駅舎やホームの待合などを見ると昔々彦根に通学していた当時から約50数年殆ど変わっていなくて、あっちやこっちに相当な傷みもあり老朽化が進み、何かみすぼらしい状態になっている。この駅から通勤・通学や多くの中学・高校卒業後、関東や関西の企業に就職した出発駅でもあり、また帰省時の玄関口でもあり懐かしい。今は車であるため利用することは殆どないが、懐かしい駅舎として残して欲しいと、この日野駅再生プロジェクトに参加(寄付)することにした。

2016年12月29日木曜日

禅寺・円福寺

京都府八幡市、大阪府枚方市にまたがって三万坪を数える敷地にある禅寺・円福寺は、山門・本堂・庫裡・禅堂・有栖川宮旧御殿等多くの建物が甍を連ね、洛南の一大道場として雲水(修行僧)衆が日夜坐禅托鉢等に精進している禅寺。その禅寺・円福寺で12月18日に高さ約15メートルのイチョウの大木2本に修行僧がはしごをかけて登り、束にしたダイコンをロープで引き上げ、枝にかけた行事が行われた。このダイコンは修行僧らが托鉢して歩き、農家などから集めた約1200本。冬の冷気に1月中旬ごろまでさらし、漬けものに。修行僧の毎日の食事のほか、年2回の「万人講」で振る舞われるという。特に変わった年度行事ではないが、イチョウの大木にかけて干すのはちょっと面白いし、変わった風景で新聞でも報道された。
ここ円福寺は1783年3月に臨済宗最初の専門道場(江湖道場)として建立された。
 京セラ創業者稲盛和夫さんがこの臨済宗妙心寺派の円福寺で、西片擔雪(たんせつ)さんというご老師の導きで、得度をされ仏門に入られたことでも名が知れている。

2016年12月25日日曜日

第61回「報道展」

関西写真記者協会(加盟77社、カメラマン1100名所属の協会)の第61回「新聞・通信・テレビ・ニュース報道展」が阪神百貨店梅田本店8階に開催されているので立ち寄ってみた。
この展示は、関西写真記者協会所属のカメラマンの1年間の集大成として、 今年中に放映された放送ニュースや紙面掲載された新聞写真から選考された作品を上映・展示し「この1年」を振り返る報道展である。  歳末に「この一年」を振り返る師走恒例の報道カメラマンによる写真、映像作品展として毎回好評を得て行われている。
会場には、今年の出来事の写真が、新聞・通信の部とテレビ・ニュース映画の部の各部門毎(ニュース・ニュース組み・スポーツ・企画・撮影・新人の部門)に金賞・銀賞が選ばれて展示されていた。すでに見たことのある出来事の写真やまだ見たことのない写真もあった。また、撮ろうと思ってもなかなか撮れないようなすばらしい写真も多々あり、さすがにプロだと感じた。この1年を振り返りなが見て回った。
この展示会場内での写真撮影が禁止されており、残念ながらすばらしいと思うものを撮ることができず、外からのみの写真となった。

2016年12月24日土曜日

大阪・光の饗宴2016

大阪の中心を南北に走る御堂筋4kmを光で包みこむ「御堂筋イルミネーション」、水と光の際立つ中之島で開催される「OSAKA光のルネサンス」の2つを「コアプログラム」として展開されるもの。
御堂筋の南から北まで8ブロックに分けて、それぞれのエリアにあわせた色のイルミネーションがイチョウの幹に装飾し、「光の列柱」が続いていて綺麗で、難波から淀屋橋まで散策しながら楽しんだ。ヽ(;▽;)ノ 中之島中央公会堂ではプロジェクションマッピングをみた。

2016年12月23日金曜日

「1万人の第九」の放送

12月4日(日)にあった第34回「サントリー1万人の第九」が、23日(祝日)13時55分からMBS4から放送された。今回、渡辺直美さんのアップ顔で「1万人の第九 発見!理由ありクラッシク」としてスタート\(◎o◎)/!。
前半はクイズ方式で、例えばベートーヴェンは世界で始めてのコンサート活動をしたといわれているが、何故か?お金に困っていたからか?それとも女性にモテたかったからか?(答え:お金に困っていたから)。当時、音楽は王様や貴族のものだったから画期的な試みだった。しかし、第九の初演は大盛況だったのに彼は怒った、それは何故か?(答え:儲かった筈のお金が殆どなかったから)など。 ベートーヴェンのウソのようなホントの話が分かり面白い企画だった。後半の最後は第九演奏の様子で、その映像のどこかに微かに写っているだろうと探してみると、本当に微かに写っているのを発見。今回は、前から3列目49番の端だったので見つけやすかった。
これで、今年の第九も終わり、この1年を締めくくることが出来てよかったなぁ~(´▽`)

枚方駅前「TーSITE」

1983年、駅前に第1号店を開いたレンタル最大手のTSUTAYA創業者(枚方出身の増田宗昭社長)が同じ駅前に、代官山T-SITE、湘南T-SITEに次ぐ3店舗目の枚方T-SITEを今年5月16日オープンしてはや半年が過ぎた。 この場所には近鉄百貨店、その前のひらかた丸物が、またすぐ近くに三越百貨店、長崎屋などがあって、それなりに賑わっていたが時代の流れに乗れず撤退した場所となっていた。そのため枚方市駅前は寂れて、最近は新しくなった「くずはモール街」にお株を奪われてしまっていた。それがようやくこの枚方T-SITEで、活気を取り戻すようになって来ているようで、結構賑わっていた。今日は富山市在住の長女の孫娘と次女の孫娘2人、それに次女の婿と5人で、この枚方T-SITEの5階にある子ども遊びコーナーに出かけた。ここは0歳~3歳くらいまでの赤ちゃんを対象にしたあそび場であるが、次女の下の孫娘が2歳でその姉妹ということで入場が出来た。入場料は大人も子どもも1時間500円で、祝日の影響もあってか若い夫婦が幼児を連れてやおじいちゃんやおばあちゃんが孫を連れてが多く見受けられ賑わっていた。(写真は、まだ賑わっていない時間帯に撮影) いろいろな遊び道具が揃っており、若い係のおねいちゃんが一緒に遊んでくれたりする。孫娘は、特に大きなボールプールが気にいっていた。約1時間楽しく過ごせた(´▽`)

2016年12月11日日曜日

映画「海賊とよばれた男」

百田尚樹氏による歴史経済小説の映画化。出光興産創業者の故出光佐三氏のモデルとした主人公・国岡鐡造の一生と、出光興産をモデルにした国岡商店が大企業にまで成長する過程が描かれたもの。
映画のあらすじは、主要燃料が石炭だった当時から、石油の将来性を予感していた若き日の国岡鐡造(岡田准一)は、北九州・門司で石油業に乗り出すが、その前には国内の販売業者、欧米の石油会社(石油メジャー)など、常に様々な壁が立ちふさがり、行く手を阻んだ。しかし、鐡造はどんなに絶望的な状況でも決して諦めず、それまでの常識を覆す奇想天外な発想と、型破りの行動力、何よりも自らの店員(=部下)を大切にするその愛情で、新たな道を切り拓いていった。その鐡造の姿は、1945年(昭和20年)8月15日に戦争が終わったが、さらなる逆風にさらされても変わることはなかった。東京をはじめとした主要都市は徹底的に爆撃されて瓦礫の山となり、海外資産のすべてを失って莫大な賠償金が課せられようとしていた。これから日本はどうなっていくのだろうかと、全員が途方に暮れて失意に包まれているとき、わずかに残った店員を集めて、鐡造は「愚痴をやめよ、愚痴は泣きごとである。亡国の声である」「日本には三千年の歴史がある。戦争に負けたからと言って、大国民の誇りを失ってはならない。すべてを失おうとも、日本人がいるかぎり、この国は必ずや再び立ち上がる日が来る」と訓示を述べた。だが、失望から立ち直り武者震いする店員たちに、売るべき商品「石油」がそもそもないという現実が襲いかかる。「店主、このままでは、国岡商店は潰れます。涙を呑んで人員整理を」という進言に、鐡造は「馘首はならん!」と解雇を断固拒否する。戦後、住処も食糧事情もままならない情勢下で、日本の復興に向かって闘う男たちの物語が始まった。(以下省略)
この映画を見て田岡鐵造の時流を見つめた洞察力、判断力、揺るがない信念と愛情の生きかたに感動した。「店員は家族と同じ」という信念のもと厳しい状況にあっても決して諦めることなく、押し進めたことも立派だったと思う。主役の岡田准一さんが若き時代から最後の96歳までの田岡鐡造を演じたのは立派で、見応えのあるものだった。最後の96歳という年齢のメイクは、顔のシワやシミ、白髪など非常にリアルで、ここまで出来るのかと感心した。

2016年12月9日金曜日

月桂冠大倉記念館と黄桜

 伏見界隈を散策して月桂冠大倉記念館キザクラカッパカントリー(黄桜酒造)を見物した。
酒の資料館「月桂冠大倉記念館」は、入館料300円で同時にお土産で一本(一合)300円?の日本酒がもらえた。つまり無料で入れるという感じだった。資料館では、月桂冠の歴史や出来事、日本酒のつくり方の説明と道具が並べられており、日本酒のつくり方を改めて学んだ。
資料館を出たところには、伏見の水が湧き出ていて、お猪口で飲むことが出来た。無味でさっぱりとしていた。終わると試飲コーナーがあり、三種類の日本酒を試飲した。
ここ月桂冠は1637年(寛永14年)、初代・大倉治右衛門が京都府南部の笠置町(現在の相楽郡笠置町)から城下町、宿場町としてにぎわっていた京都伏見に出て来て創業。名前の由来は、ギリシャ神話に「太陽神アポロが怪蛇を退治し、月桂樹の葉をもって身を浄めた」とあるように、ヨーロッパでは、月桂樹は邪気を払う霊木として崇(あが)められてきた。1905年(明治38年)、勝利と栄光のシンボル「月桂冠」を商標登録し酒銘として使いはじめた。当時、自然や地名などをもとにした銘柄が多く用いられていた中で、ハイカラな酒銘として注目を浴びたとのこと。また、この名前は1910年(明治43年)に「コップ付き小びん」が当時の鉄道省で「駅売りの酒」として採用され、月桂冠が広く知られるきっかけになったとのこと。
キザクラカッパカントリー(黄桜酒造)では、河童資料館があり無料でみることが出来た。黄桜の歩みや酒作りの工程等や河童に関することが詳しく分かりやすく紹介されていたが、資料としては少なかった。
社長の話によれば「社歴が数百年ある老舗のひしめく伏見で黄桜が設立されたのは、1951年(昭和26年)で60数年前。 実は、清酒業界内では相当若い企業とのこと。業界内での後発メーカーという立場を活かし、「独創的な発想」と「斬新な行動」で、業界では先駆けて行ったテレビCMや、概念にとらわれない商品開発などでお客様の支持を得てきたとのこと。例えば、京都初の地ビールレストラン「カッパカントリー」や東京台場にミニ醸造所を作ったり、日本酒造りを体験できるコースを設けたり…このような地道な活動を続け、清酒ファンを1人でも増やしながら、お客様と共に文化を理解し、発展させていこうと努力している。」とのこと。なかなか日本酒作りの経営も難しいものだと思った。 

2016年12月4日日曜日

「サントリー1万人の第九」

 大阪師走の風物詩、第34回「サントリー1万人の第九」が行われ出演。指揮は佐渡裕さんで今回で18回目の総監督・指揮者。今回は、2000年12月(第18回)に始めてから16回目の出演。またこの「第九」は、大阪、札幌、東京(国技館)、広島、鳴門、香川などで合計が49回目となった。目標50回の出場まであと1回で達成できるまでになった。長い~~第九の歴史をまた一つ刻んだ。
オープニングとして女子高校生のボーカルグループ「Little Glee Monster」(リトル・グリー・モンスター)による「Seasons Of Lover~ミュージカル「RENT」より」の歌で開幕した。
第1部では、フランスの若きピアニスト、リュカ・ドゥバルグさんがピアノの美しい音色を奏でたほか、Little Glee Monsterがビートルズの名曲「ヘイ・ジュード」を合唱団と共に歌った。
第2部には、俳優佐々木蔵之介(48)さんが第九の第4楽章で合唱されるシラーの詩の日本語訳「歓喜に寄せて」を朗読した。毎日新聞によると『初体験に感激し、来年の登板も直訴した。佐々木さんは、10月に父で佐々木酒造会長の勝也さんを胃がんのため、83歳で亡くした。7月上旬に今回の朗読者に決まった際、病床の父が喜んでくれたという。「病室で看護師さんにも”息子が朗読やるんや”と話していた」と明かし、「残念ながら今日は見てもらえなかったが、(天国で)聞いて喜んでいると思う」としみじみと。自身も第九の大合唱を鑑賞中、「天上に光が立ち上るような気がして、ホールの天井を見上げた。父に届いている」と語った。』という。
 その後、ベートヴェン交響曲第九の演奏が始まった。ソリストは、ソプラノ:並河寿美、メゾソプラノ:谷口睦美、テノール:西村 悟、バリトン:キュウ・ウォン・ハンの各氏、合唱団は北は北海道・東北仙台、南は福岡・沖縄那覇などから、また海外からオーストリアから25名が、年齢は小学1年生から92歳までの1万人で歌い上げた。最後は「蛍の光」を全員で合唱し、また新たな感動のもと終了した。\(^o^)/  上の写真は東京「ゆうとう会」のメンバーとの記念写真。
これらは、MBSにて12月23日(水・祝日)13:55~14:52に「クラッシクは怖くない!」で放送される。


2016年11月27日日曜日

佐渡練(佐渡総監督レッスン)

第34回「サントリー1万の第九」も今週(12月3日(土)リハーサル、4日(日)本番)に迫り、夏から始まったレッスンも最後の佐渡練(佐渡指揮者・総監督による合同レッスン)で終わりとなる。そのレッスンが、今年は京阪天満橋駅から近くのエル・シアター(府立労働センター)で、森ノ宮E・F・1・2クラスの約1000人が参加して行われたので参加した。約1時間35分による細かな歌い方指導もあり最後の仕上げとなった。
この「一万人の第九」に始めて出演したのは2000年の第18回からで、翌年2001年だけ他の合唱団の第九出演で出なかったのみで、その後は毎年出演して今回で16回目となる。第九の出演はトータルでは49回目で、50回まであと1回で達成するまでになった。長い~長い~第九の歴史があるが、また新たな歴史を刻むことになる。 さあ~もうすぐ本番だ。風邪などを引かないように注意し、今年の最後を飾ろう!
写真は第九レッスン(森ノ宮E・1・2レッスン)の有本正人講師のサイトから借用した。

2016年11月20日日曜日

京都「龍吟庵」

 「即宗院」の横にある東福寺塔頭のひとつで、年に1回紅葉シーズンに特別公開されている。ここ「龍吟庵」は「りょうぎんあん」と呼び、室町時代初期に建造された現存最古の方丈建築の単層入母屋造である。
東福寺第三世住持「大明国師」の住居跡、大明国師坐像(重要文化財)が方丈の背面の開山堂に安置されている。方丈の東西南の三方に枯山水の庭は、重森三玲により昭和39年につくられた。三方(東・西・南)は庭に囲まれているのが特色である。
方丈の前側の南の庭は「無の庭」で、置石がないシンプルな白砂だけの庭。(下の写真の右上)
西側の庭は「龍門の庭」で 龍吟庵の寺号に因んで、龍が海から顔を出して黒雲に乗って昇天する姿を石組みによって表現している庭。(下の写真の左下)
東側の庭は「不離の庭」で大明国師が幼少の頃、熱病にかかって山中に捨てられた時、二頭の犬が国師の身を狼の襲撃から守ったという故事を石組みで表している庭。。(下の写真の右下)
という名園らしいが説明を聞いて、何となく成る程と納得したものだった。

京都「即宗院」

秋の紅葉シーズンに特別公開されている東福寺境内にある「即宗院」を訪れた。
東福寺は紅葉シーズンで、また日曜日でもありすごい観光客で賑わっていた。
ここ「即宗院」は池泉回遊式庭園「月輪殿」と西郷隆盛による東征戦亡之碑などを見て回った。庭園には赤や黄色の千両が沢山植えられて、実が庭に色を添えていた。
この即宗院は東福寺塔頭のひとつで、1387年(嘉慶元年)の創建、東福寺龍吟庵の東側に位置する。島津家の菩提寺で、法然上人および西郷隆盛のゆかりの寺として知られている。西郷隆盛と月照上人が密談したとされる茶室「採薪亭」跡や、西郷隆盛による東征戦亡之碑などがある。室町時代に藤原兼実公が造営した池泉回遊式庭園「月輪殿」跡がある。

2016年11月17日木曜日

奈良市写真美術館

「志賀直哉」の旧居からすぐ近くにある入江泰吉記念「奈良市写真美術館」で、春日大社第60次式造替記念として、3日から故入江泰吉氏の「春日大社とおん祭」展と同時開催として「春日山原始林」展があり鑑賞した。入江泰吉氏が長年撮り続けてきた春日大社の風景と伝統行事「春日若宮おん祭」を中心にした写真が展示されて、1950年頃の「おん祭の露店」の風景、「春日大社の参道秋陽」など春日大社の四季写真を楽しんだ。
入江泰吉記念「奈良市写真美術館」は、写真家・入江泰吉の全作品を収蔵・保存するとともに、随時テーマを替えて企画展を開催し入江作品を公開している。
故入江泰吉氏(1905ー1992) 昭和時代の写真家。明治38年(1905)11月5日に奈良に生まれ。昭和6年大阪で写真店を開業。昭和16年日本写真美術展に「文楽」を出品し文部大臣賞。昭和20年故郷奈良にもどり大和路の風景、仏像などを撮影し、平明で抒情的な作品で人気写真家となる。「古色大和路」「万葉大和路」「花大和」で51年菊池寛賞受賞。平成4年1月16日死去(86歳)。 県庁東側に入江泰吉旧居があり、公開されている。

「志賀直哉」の旧居

白樺派の文豪「志賀直哉」が昭和4年から9年間住んだという旧居(敷地435坪、建物134坪)が「春日大社」の南側上高畑町にあり訪れてみた。現在は奈良文化女子大学のセミナーハウスになっているが、有料で中を見ることができる。
大正14年(1925年)、 京都・ 山科から奈良・幸町に居を移した志賀直哉は幸町の借家で4年間を過ごした後、この上高畑町に宅地を求めた。昭和3年に志賀直哉自身が設計したとされるこの旧居は和風、洋風、中国風の様式を取り入れ当時としては、大変進歩的で合理的なものであったようで、数奇屋作りの書斎はわざわざ京都から名大工を呼んで作らせたとのこと。ほとんどが当時のままで、あの「暗夜行路」はここで完成した。ここは静かで、しかも窓から若草山が借景になった庭が見え、最高の環境で執筆活動していたようだ。有名な高畑サロンと言われるところは、文化人や画家などの憩いの場となっていたようで、ここを訪れた人の名前、武者小路実篤、谷崎潤一郎、・・・と知った名前が書かれた額や写真も展示されていた。当時のここの情景が浮かぶようだった。
随筆「奈良」(志賀直哉全集7巻)の最後に「兎に角、奈良は美しい所だ。自然が美しく、残っている建築も美しい。そして二つが互いに溶けあってゐる点は他に比を見ないと云って差支えない。今の奈良は昔の都の一部分に過ぎないが、名畫の殘欠が美しいやうに美しい。御蓋山の紅葉は霜の降りやうで毎年同じやうには行かないが、よく紅葉した年は非常に美しい。5月の藤。それから夏の雨後春日山の樹々の間から湧く雲。これらはいつ迄も奈良を憶う種となるだろう」と書いているように志賀直哉が奈良が好きだったことがよくわかる気がした。

「春日大社」特別参拝

今年11月6日に第60次式造替が行われ、御本殿やそれ以外の社殿も美しく蘇った「春日大社」の正遷宮を奉祝し、12日~17日の午後から御本殿の特別参拝が行われているので出かけてみた。多くの特別参拝者や一般参拝者であった。
南門をはじめ本殿と、その周りも大変綺麗に修復され、一千基の釣燈籠が架けられた回廊を歩き、厳かな気持ちで御本殿にお参りした。が、本殿の第一、第二、第三、第四殿内には入れなかったのが少し残念だった。
ここ春日大社は、今からおよそ1300年前、奈良に都ができた頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く鹿島神宮から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様を神山御蓋山(ミカサヤマ)山頂浮雲峰(ウキグモノミネ)に迎えたことから始まる。その後香取神宮から経津主命様、また枚岡神社から天児屋根命様・比売神様の尊い神々様を招いた。祭神はこの4つの神様である。
御創建以来当社は、千古の森の中に朱の柱、白い壁、そして自然の檜皮屋根の本殿・社殿が往古と変わらぬ壮麗で瑞々しく鎮まっていた。これを20年毎に斎行される式年造替という制度により、社殿の御修繕、御調度の新調、祭儀の厳修により日本人の命が連綿と受け継がれてきた。これにより、清々しくも尊厳ある気が境内に満ち、神様の広大無辺なるお力や有り難さがしみじみと感じられる名社として今日に至っている。

2016年11月15日火曜日

京都「酢屋」坂本龍馬の命日

11月15日は坂本龍馬の命日で、最後の隠れ宿であった「酢屋」(河原町三条下る)で追悼祭と龍馬追悼展が行われていた。「酢屋」の前には祭壇が設けられお供え物やお花で飾られて追悼式が行われたようである。2時頃に行ったので、すでに終わっていた。
2階の龍馬ギャラリーの追悼展では、龍馬愛用の煙草盆、きょうそく、海援隊日記、乙女姉宛ての最後の手紙などが展示され、当時のままの部屋の様子などを見て当時を偲ぶことが出来た。
今から丁度149年前の1867年11月15日、龍馬と慎太郎は醤油商近江屋の母屋2階にて密談中であった。午後9時過ぎ、何者かが龍馬に面会を求めてやってきた。そして、彼らは取り次ぎにでた下僕の山田藤吉(滋賀県三井寺町の出身で龍馬の世話役・用心棒)のあとから近江屋に潜入、龍馬のいる2階に向かった。二人の刺客は2階に上がるとまず藤吉を斬殺。龍馬らの座敷に乱入し、いきなり龍馬、中岡に斬りかかった。龍馬は額を真横に斬られ、ほとんど即死。中岡は数十箇所に傷を受け、2日後に絶命した。 龍馬と慎太郎、藤吉は17日に近江屋で葬儀が行われ、東山霊山護国神社横の墓地に埋葬された。
この「酢屋」は享保6年より現在まで続く材木商。今年でちょうど開業から290年。 幕末当時、六代目酢屋嘉兵衛は材木業を営む傍ら、角倉家より高瀬川の木材独占輸送権を得て、運送業をも掌握していた。家の前は高瀬川の船入りで、各藩の折衝や伏見そして大坂との連絡の地に格好の地であったため、坂本龍馬は1867年6月初旬から「酢屋」を海援隊京都本部とし、自らも身を寄せた。 酢屋嘉兵衛も龍馬の活動に大変理解を示し、命懸けでその活動の援助に力を注いだという。さてその坂本龍馬、酢屋では「才谷さん」と呼ばれ、二階の表西側の部屋(写真の左の部屋)に住み込んでいた。 今でこそ酢屋の前は飲食街が立ち並んでいるのだが、当時は高瀬川の舟入になっており、龍馬が2階の格子から向いの舟入にむけて銃の試し撃ちをしていたともいわれている。24日にはこの酢屋の2階において朝6時から、出格子から差し込む明かりを頼りに畳に紙を置いて長さ5mにも及ぶ手紙を高知の乙女姉に宛てて書き、酢屋に投宿している旨などを伝えている。(これが乙女宛ての最後の手紙となった。) 龍馬暗殺があった近江屋にもこの酢屋から海援隊隊士が駆け付け情報収集したのであろう、暗殺者が3人であり龍馬がほぼ即死であったこと、16日には下男藤吉が絶命、翌17日には陸援隊隊長中岡慎太郎絶命、その後神式で葬儀が執り行われ霊山護国寺に埋葬されたことなどが海援隊日記に克明に書き込まれている。

2016年11月12日土曜日

「工学部学友会」第三回総会

湖風会「工学部学友会」第三回総会が、湖風会設立10周年記念式典日の11月12日(土)午前11時から滋賀県立大学A3棟301講義室にて、来賓の滋賀県立大学の大田学長、工学部山根部長、「湖風会 」岡田会長、「公益財団法人京都産業21」小林専務理事と教職会員(8名)、「湖風会」支部長(2名)、機械・紡織科及び化学・染色科卒の会員(71名)、県立大工学部卒の会員(10名)、現役の工学部学生(7名)を合わせて102名(実績)の出席のもと盛大に開催された。総会では、まず「工学部学友会」会長の挨拶・ご来賓の紹介と活動報告、山根工学部長の挨拶と工学部概要説明、大田学長及び岡田会長のご祝辞があった。
最後に出席者全員で記念写真の撮影を行い無事に終了した。前回と同様に工学部棟「研究室見学ツアー」が、総会の前の午前10時から希望者(約50名)を対象に機械システム工学科・電子システム工学科コース及び材料科学科コースの2コースに分かれて行われた。
また、湖風会設立10周年記念式典は、まず午後1時からA2棟202講義室にて出席者186名のもと、記念講演が国立研究開発法人海洋研究開発機構 海底資源研究開発センター長の木川栄一氏からテーマ「日本近海海底資源:研究の最先端と開発の現状」で行われ、記念式典では岡田会長の挨拶、大田学長のご祝辞、シンボルマークの最優秀賞の発表と賞状授与が行われた。続いて午後3時からは祝賀会がカフェテリアにて102名参加のもと行われ、これらすべてに出席した。また、この日は快晴に恵まれ校内では湖風祭も行われ、地域の人たちも多く来られて大いに賑わっていた。

2016年11月7日月曜日

キンシ正宗「堀野記念館」

BS4で毎週日曜日21時から放送されている船越英一郎さんの「京都を極める」(京都の有名神社仏閣、食事処などを紹介する番組)をみているが、今回、キンシ正宗の京仕込み発祥の地、旧堀野本宅の「堀野記念館」が紹介されたので訪問してみた。
その歴史は古く天明元年(1781年)、若狭出身の初代松屋久兵衛がこの地に造り酒屋を創業したことに始まる。 明治13年(1880年)に酒造拠点は伏見に移されたが、屋敷や酒造道具類は当時の様子を伝える文化資産として、今に受け継がれている。この堀野記念館の名はかつて堀野家の本宅であったことに由来している。間口約26m、奥行約30m、広い敷地の南側に位置するのが、切妻造段違桟瓦葺の主屋。切子格子やむしこ窓など、町家らしい造りを観ることができる。記念館の右隣(北側)にある町家麦酒の旨さの源泉は、堀野記念館中庭からコンコンと湧き出る桃の井の名水(下の写真の左下)で造られている。
 キンシ正宗は明治13年(1880年)までは、この桃の井の名水で作られていて、多くの酒蔵が軒を並べていた。が、その後は伏見に移り、現在はキンシ正宗の本社蔵内にある常磐井の水(日本の名水百選にも選ばれた御香宮に湧きでる御香水と同じ水脈)で、 この「自然の恵み」を「命の水」としてキンシ正宗の酒は造られいる。 今回、入館料300円で約200年の町家らしい造りの本宅・庭園(下の写真の上の左右)や酒造道具類の当時の様子を伝える品々などを見物した。 また、桃の井の名水も飲んでみたが、まろやかな感じの水だった。最後に日本酒と地ビール(下の写真の右下)を試飲したが、あまりお酒やビールの味がわからないがなかなかの味だった。

慈舟山「瑞泉寺」拝観

前関白豊臣秀次公一族の菩提寺の京都三条大橋西畔にある慈舟山「瑞泉寺」を訪れて拝観した。ここも秋期京都非公開文化財特別公開の一箇所で、最終日でもあり沢山の拝観者であった。
 ここ「瑞泉寺」は江戸時代のはじめまで、広い鴨川の河原の中州だった場所 。この場所で、今から421年前、悲しい事件が起こった。瑞泉寺はそのことを伝えをとどめるために建てられたお寺である。それは文祿4年(1595年)8月2日の昼下がり、 時の関白豊臣秀次公の一族の公開処刑が、ここ三条河原でおこなわれた。秀次公は太閤秀吉公の甥であるが、実子に恵まれなかった秀吉公に請われて養子となり、 二代目関白太政大臣を引き継いで、豊臣家の次世代をまかされた人。 幼少の頃から数々の戦で武功をあげ、また戦乱の世で散逸した古典の収集にも力を注いだ人でもあった。 関白を譲られる前は近江八幡の領主として善政を敷き、領民に慕われてもいた。そんな秀次公が悪逆の汚名と、謀反の罪を着せられ、切腹させられた。その理由には、一つは秀吉公の愛妾淀の君に秀頼が生まれ、 実子を盲愛する秀吉公からうとまれた、との説。また石田三成らの奸計によるものとする説、また秀吉のすすめる朝鮮征伐に秀次公が異を唱えたからとする説。そのいずれの要因も絡み合って起こった悲劇だった。秀次公は文祿4年7月15日 、秀吉公の命により高野山青厳寺において切腹。 御首のみ京の三条河原に移され、その前に秀次公の一族が引き出されて、 次々と処刑されていった。秀次公の一族すなわち4人の若君と1人の姫君、そして側室として仕えた若く美しい女性たち34人の合計39人。 三条大橋から多くの人が見守る中、 一人ずつ処刑されては大きく掘られた穴に投げ込まれ埋められた。そしてそこに大きな塚が築かれ、 頂上には秀次公の御首を納めた「石びつ」が据えられた。それを三条大橋を渡る人々への見せしめとしたとのこと。その16年後、豪商角倉了以翁が「塚」が荒廃している様子をみて、浄土宗西山派の僧とともに荒廃した墓域を整理するとともに、一族の菩提を弔う寺をその場所に建立された。(以上が概略で、それ以外省略)
 いつも境内の豊臣秀次公一族の墓地や地蔵菩薩堂、本堂の参拝やその関連資料が展示されていてみられるが、この日は本堂内での参拝や展示室にて豊臣秀次公の切腹の絵図、一族の処刑絵図、遺骸が投げ込まれ埋められる絵図などや秀次公の掛け軸や使用していた品々(刀や槍など)をみることが出来た。改めて秀次公の切腹とその一族の処刑の惨さを考えさせられた。

2016年11月6日日曜日

「げんき~」Gの芸能ボランテイア

今回は老健施設「しらかばホール」(枚方市出屋敷)の入所者約30名を対象の芸能ボランティアで、今回も前回と同様、メンバーの参加が少なく4名で行った。
出し物は、相変わらずの歌体操(4曲)→新舞踊(2曲)→踊り「どじょうすくい」→「皿回し」→「南京玉すだれ」→踊り「おてもやん」→踊り「河内音頭」の約60分の演技ボランティアだった。
入所者の皆さんは元気そうな人たちばかりで、それなりに楽しいひと時を過ごしてもらった感じだった。 (*゚▽゚*) 次回は12月25日(日)午後1時半から同じく老健施設「ひらからヒルズ」の予定である。
上の写真は、はじめの挨拶の様子、下の写真の右上は歌体操、左上は皿回し、左下はどじょうすくい、右下は「河内音頭」を職員の人も入っての踊りの様子。

2016年11月2日水曜日

心斎橋界隈を散策

久しぶりに親友と地下鉄心斎橋駅北改札口で11時に待ち合わせ、御堂筋の西側界隈(アメリカ村など)をブラブラと散策しながら写真を撮った。
写真を撮るつもりで街中をブラブラとすると看板、ショーウインドー、レトロな建物、彫刻品などの被写体も多く、そこに少し人物を入れての撮影も出来て結構面白かった。
昼食は大丸前の日航ホテル地下2階にある「和食個室 禅園」で人気ランチの松花堂弁当「花鳥風月」を、雑談しながら楽しんだ。
その後、御堂筋を淀屋橋まで散策しながらよい被写体があれば写真を撮った。まだ黄色に染まっていないイチョウ並木も日光がよく当たる木は黄色に染まっていて綺麗だった。 イチョウの木が黄色に染まるのも、もうすぐだ。

2016年10月30日日曜日

松花堂の庭園・美術館

石清水八幡宮から南へ約2km行ったところにある「松花堂」の庭園・美術館に行ってみた。ここも文化財特別公開のところだった。
松花堂というのは人の名前で、男山・石清水八幡宮の寺坊の一つ「滝本坊」の住職を務めた松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)のこと。江戸時代初期、寛永年間に活躍した昭乗は、僧として最高の位である阿闍梨(あじゃり)の位にまで上り、近衛信尹(このえのぶただ)、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)と共に、「寛永の三筆」と評された書の達人で、書画や和歌、茶の湯にも通じた一流の文化人。寛永14年(1637年)に住職を退いた昭乗は、「泉坊」という寺坊に草庵「松花堂」を建て、晩年を過ごした。草庵「松花堂」は明治の神仏分離の際に山麓に移され、さらに明治24年(1891年)に現在地に移築された。昭和52年(1977年)より八幡市の所有となった「松花堂庭園」では、草庵「松花堂」をはじめ、茶室や書院、広大な庭園を公開している。また、平成14年(2992年)4月にオープンした「松花堂美術館」では年間を通じて、松花堂昭乗が遺した作品や昭乗ゆかりの人たちの美術品を展示している。
ちなみに、「松花堂」というと、四角い塗り箱に懐石料理を盛り込んだ「松花堂弁当」を思い出す。昭乗は農家で種入れに使っていた四つ切箱(田の字に仕切られた箱)を、絵の具入れや茶席の煙草盆として用いたと伝わっている。それから時を経て昭和初期に、その四つ切箱からヒントを得た「吉兆」の創業者が、懐石料理の弁当を創作。そして四角い箱に蓋をつけ、昭乗に敬意を払って「松花堂」の焼印を蓋に押し、自身の店である「吉兆」で客に提供したのが始まり。今では同様の四つ切の弁当が、松花堂弁当として広く知られている。八幡は「松花堂弁当」の発祥の地である。
今回、庭園散策では池泉回遊式日本庭園、茶室の松隠・梅隠・竹隠、泉坊書院、女郎花塚などをみて、まだ紅葉には早い時期であるが優雅な庭園を楽しんだ。また、美術館では松花堂昭乗の人物像と遺品をみて学んだ。

「石清水八幡宮」拝観

28日から秋期京都非公開文化財特別公開が行なわれており、その中の1箇所である「石清水八幡宮」に自転車(約1時間)で、途中国史跡「樟葉台場跡」に立ち寄ってから行ってみた。
本殿への行きは八幡駅からケーブルカーに乗車、帰りは表参道を下り、途中「松花堂弁当」の由来となった石清水八幡宮の僧であった松花堂昭乗の晩年の住居・草庵跡地である「松花堂跡」にも立ち寄ってみた。
この日は日曜日でもあり、七五三参りや特別公開の関係で賑わっていた。本殿に参拝後に文化財特別公開を拝観、本殿の廻廊の2箇所にて文化財関係者から祭神、八幡造りの本殿、楼門などの説明を受け、欄間の鳥や動物植物などの彫刻、織田信長が寄進したという「黄金の雨樋」(通常は非公開)などを見て回った。
上の写真は本殿、中の写真は主な象・龍などの彫刻で見事なもの。下の写真右上は展望台から京都市内方面を望む、微かに京都タワーが見える。左下は廻廊、右下は「松花堂跡」である。