2021年2月27日土曜日

淀水路沿い河津桜

京都伏見の淀水路沿いに超早咲きの「河津桜」や普通の「河津桜」があり、FBのお友達からそろそろ満開との情報があり出かけてみた。超早咲きの河津桜はもう散ってしまっていたが他の河津桜は、ほぼ満開に近いがまだ、つぼみの状態も多く見られた。その中でもよく咲いている満開の河津桜を見つけて写真を撮った。ここは地域の名所にしようと、住民でつくる「淀さくらを育てる会」が静岡県発祥の河津桜を2002年から植樹しているところ。この植樹の取り組みは、水路のほか小学校や地域の公園にも広がり、現在は約240本を育てているとのこと。この「河津桜」をみると心も癒される思いがする。もうすぐ本格的な桜シーズン(しだれ桜、ソメイヨシノ、御室の桜、八重桜など)がやってくる。心もウキウキするなぁ~~。

2021年2月23日火曜日

上腕式血圧計OMRON製

若い時より業務でのストレス・緊張が続き血圧が高く(150~160mm)定年退職の頃には高血圧症になり降下剤を服用している。過去血圧計を4台ほど買って定期的に測ってきた。が、今使っていた血圧計(写真右)が7~8年前のもので古くなり、思い切って新しい血圧計(写真左)に買い換えた。
この血圧計は本体・カフ一体型で、本体と上腕カフとのホースがないこともあり使いやすい、カフの上腕巻き方のチェック表示などがあり安心して測れる。データーはスマホにOMRON connectの専用アプリをインストールすればBluetooth通信でデーターを取り込みグラフ化も簡単に作成される。また、そのデーターをスマホからパソコンに転送出来て印刷も可能。というもので、価格が19,000円と結構高いので迷ったが、使ってみると便利で気に入っている。

2021年2月14日日曜日

天王山の登頂

大河ドラマ「麒麟がくる」の最終回も終わり、関連の大山崎・天王山に運動を兼ねて出かけた。ここは天下分け目の合戦(豊臣軍と明智軍の合戦)のあった歴史の跡をみることができるところ。天王山の麓の駐車場に車を置いて、山頂まで約1時間かかりしんどかったが、中腹には展望台や合戦の絵巻看板・説明などあり、また山頂には秀吉が築いた山崎城跡や展望台もあって改めて歴史を学ぶことが出来た。合戦のあらましは、天正10年(1582)年6月2日、京本能寺で織田信長が討たれた。その報は2日後、中国地方備中高松城攻めを信長から命ぜられていた羽柴秀吉の元にも届いた。秀吉は急遽毛利氏との和睦を成し山陽道、西国街道をひた走り京を目指した。一方、主君信長を討ち、京、近江を制圧した明智光秀は秀吉が京を目指して兵を移動させていることを知り、軍勢を摂津、河内境へと進めた。6月13日午後4時頃戦いは始まった。秀吉軍3万数千、光秀軍1万数千の軍勢が眼下小泉川(旧円明寺川)付近で激突した。戦いは短時間で決し、軍勢に勝る羽柴軍の一方的な勝利に終わった。敗北を知った明智の兵は方々に逃散し、光秀も本陣背後の勝竜寺(しょうりゅうじ)城に一時退去、夜陰に乗じて僅かな手勢を伴って近江へと逃れていった。一行は桃山丘陵を越えた小栗栖で土民の襲撃を受け、光秀は竹槍に掛かり乱世の戦いに明け暮れした短い生涯に終止符を打った。合戦直後、秀吉は天王山一帯に城を築城し、大山崎から天下統一へと乗り出すことになる。

2021年2月11日木曜日

方広寺・大仏殿跡

方広寺は豊国神社の北側、大仏殿跡は豊国神社の東側にある。方広寺に天下を統一した秀吉が東大寺の大仏にならって大仏殿の建立をはじめたが、大地震による倒壊や火災による焼失というアクシデントが相次ぎ、慶長17年(1612)に息子の秀頼によってようやく完成した。完成後、落慶供養を行う手筈となっていたが、銘文の「国家安康」「君臣豊楽」が家康の名前を分断し、豊臣を君主とするものだと徳川家康から難癖がつけられた。これが大坂冬の陣の導火線となったといわれている。大仏殿及び大仏は1798年の落雷により大仏、大仏殿ともに焼失、天保年間に再建されたが、こちらも火災にあってしまい大鐘が吊られた鐘楼、諸将の名が刻まれた石塁や石塔だけが往時の遺構が残っている。梵鐘は京都三条釜座鋳物師、名越(名護屋)三昌らによって1612年に製作された。高さが4.2m、外径2.8m、厚さ0.27m、重さ82.7tと、とても大きい物で、奈良の東大寺・知恩院・方広寺と日本三釣鐘(重要文化財)に指定されている。草花や鳥獣と人の現世・来世を描いた天井絵も当時のままで残されている。大仏殿跡は本殿から東側にあり『大仏殿跡緑地公園』として残されている。

豊国神社参拝

豊臣秀吉ゆかりの地である豊国廟に続き、豊国神社を訪ねてみた。豊臣秀吉が1598年に63歳で亡くなり後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、遺骸は遺命により阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られた。また、その麓には廟社が造営され、その偉観は豊国祭礼図屏風にも描かれており壮観を極めた。しかし豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により取り壊され、豊臣秀吉の御霊は新日吉神社に移された。その後(1880年)、現在の地に社殿が再建され別格官幣社として復興された。また、廟も阿弥陀ヶ峰の頂上にも再建(豊国廟)された。唐門の両脇の石灯籠は秀吉思顧の大名が奉献したもの。唐門も見事なものだった。

2021年2月7日日曜日

豊国廟(豊臣秀吉墓所)

運動を兼ねて初めて豊国廟を訪れた。天下人豊臣秀吉は慶長3年(1598)8月18日、伏見城で亡くなった。遺骸は遺言により京都東山・阿弥陀ヶ峰に埋葬された。山頂に墓が、山麓に荘厳な豊国社(とよくにのやしろ)が築かれた。元和元年(1615)大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、幕府により豊国社も墓も破壊された。以後、江戸時代を通してこの地は荒れ寂れていたが、明治13年(1880)豊国社は豊国神社として生まれ変わり、明治31年(1898)墓も豊国廟として再建された。豊国廟へは山頂に続く石段があり63段(秀吉の死去63歳の階段)ごとに踊り場が5つあり、階段は合計で315段と最後に約170段ありで、総合計485段ありすごくしんどくて何度も休憩してやっとたどり着いた。たどり着くと、そこには巨大な五輪の塔のある豊国廟。お参りし、左手方向の木々の合間に京都の町並みが見下ろせ、清水寺も見えた。長い石段を登ってきたこともあり気分よかった。豊国廟まいりでご利益があればよいが…。今回、秀吉のゆかりで見落とした豊国神社・方広寺にも、また訪れてみたい。