2016年11月7日月曜日

慈舟山「瑞泉寺」拝観

前関白豊臣秀次公一族の菩提寺の京都三条大橋西畔にある慈舟山「瑞泉寺」を訪れて拝観した。ここも秋期京都非公開文化財特別公開の一箇所で、最終日でもあり沢山の拝観者であった。
 ここ「瑞泉寺」は江戸時代のはじめまで、広い鴨川の河原の中州だった場所 。この場所で、今から421年前、悲しい事件が起こった。瑞泉寺はそのことを伝えをとどめるために建てられたお寺である。それは文祿4年(1595年)8月2日の昼下がり、 時の関白豊臣秀次公の一族の公開処刑が、ここ三条河原でおこなわれた。秀次公は太閤秀吉公の甥であるが、実子に恵まれなかった秀吉公に請われて養子となり、 二代目関白太政大臣を引き継いで、豊臣家の次世代をまかされた人。 幼少の頃から数々の戦で武功をあげ、また戦乱の世で散逸した古典の収集にも力を注いだ人でもあった。 関白を譲られる前は近江八幡の領主として善政を敷き、領民に慕われてもいた。そんな秀次公が悪逆の汚名と、謀反の罪を着せられ、切腹させられた。その理由には、一つは秀吉公の愛妾淀の君に秀頼が生まれ、 実子を盲愛する秀吉公からうとまれた、との説。また石田三成らの奸計によるものとする説、また秀吉のすすめる朝鮮征伐に秀次公が異を唱えたからとする説。そのいずれの要因も絡み合って起こった悲劇だった。秀次公は文祿4年7月15日 、秀吉公の命により高野山青厳寺において切腹。 御首のみ京の三条河原に移され、その前に秀次公の一族が引き出されて、 次々と処刑されていった。秀次公の一族すなわち4人の若君と1人の姫君、そして側室として仕えた若く美しい女性たち34人の合計39人。 三条大橋から多くの人が見守る中、 一人ずつ処刑されては大きく掘られた穴に投げ込まれ埋められた。そしてそこに大きな塚が築かれ、 頂上には秀次公の御首を納めた「石びつ」が据えられた。それを三条大橋を渡る人々への見せしめとしたとのこと。その16年後、豪商角倉了以翁が「塚」が荒廃している様子をみて、浄土宗西山派の僧とともに荒廃した墓域を整理するとともに、一族の菩提を弔う寺をその場所に建立された。(以上が概略で、それ以外省略)
 いつも境内の豊臣秀次公一族の墓地や地蔵菩薩堂、本堂の参拝やその関連資料が展示されていてみられるが、この日は本堂内での参拝や展示室にて豊臣秀次公の切腹の絵図、一族の処刑絵図、遺骸が投げ込まれ埋められる絵図などや秀次公の掛け軸や使用していた品々(刀や槍など)をみることが出来た。改めて秀次公の切腹とその一族の処刑の惨さを考えさせられた。

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