2016年10月30日日曜日

松花堂の庭園・美術館

石清水八幡宮から南へ約2km行ったところにある「松花堂」の庭園・美術館に行ってみた。ここも文化財特別公開のところだった。
松花堂というのは人の名前で、男山・石清水八幡宮の寺坊の一つ「滝本坊」の住職を務めた松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)のこと。江戸時代初期、寛永年間に活躍した昭乗は、僧として最高の位である阿闍梨(あじゃり)の位にまで上り、近衛信尹(このえのぶただ)、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)と共に、「寛永の三筆」と評された書の達人で、書画や和歌、茶の湯にも通じた一流の文化人。寛永14年(1637年)に住職を退いた昭乗は、「泉坊」という寺坊に草庵「松花堂」を建て、晩年を過ごした。草庵「松花堂」は明治の神仏分離の際に山麓に移され、さらに明治24年(1891年)に現在地に移築された。昭和52年(1977年)より八幡市の所有となった「松花堂庭園」では、草庵「松花堂」をはじめ、茶室や書院、広大な庭園を公開している。また、平成14年(2992年)4月にオープンした「松花堂美術館」では年間を通じて、松花堂昭乗が遺した作品や昭乗ゆかりの人たちの美術品を展示している。
ちなみに、「松花堂」というと、四角い塗り箱に懐石料理を盛り込んだ「松花堂弁当」を思い出す。昭乗は農家で種入れに使っていた四つ切箱(田の字に仕切られた箱)を、絵の具入れや茶席の煙草盆として用いたと伝わっている。それから時を経て昭和初期に、その四つ切箱からヒントを得た「吉兆」の創業者が、懐石料理の弁当を創作。そして四角い箱に蓋をつけ、昭乗に敬意を払って「松花堂」の焼印を蓋に押し、自身の店である「吉兆」で客に提供したのが始まり。今では同様の四つ切の弁当が、松花堂弁当として広く知られている。八幡は「松花堂弁当」の発祥の地である。
今回、庭園散策では池泉回遊式日本庭園、茶室の松隠・梅隠・竹隠、泉坊書院、女郎花塚などをみて、まだ紅葉には早い時期であるが優雅な庭園を楽しんだ。また、美術館では松花堂昭乗の人物像と遺品をみて学んだ。

「石清水八幡宮」拝観

28日から秋期京都非公開文化財特別公開が行なわれており、その中の1箇所である「石清水八幡宮」に自転車(約1時間)で、途中国史跡「樟葉台場跡」に立ち寄ってから行ってみた。
本殿への行きは八幡駅からケーブルカーに乗車、帰りは表参道を下り、途中「松花堂弁当」の由来となった石清水八幡宮の僧であった松花堂昭乗の晩年の住居・草庵跡地である「松花堂跡」にも立ち寄ってみた。
この日は日曜日でもあり、七五三参りや特別公開の関係で賑わっていた。本殿に参拝後に文化財特別公開を拝観、本殿の廻廊の2箇所にて文化財関係者から祭神、八幡造りの本殿、楼門などの説明を受け、欄間の鳥や動物植物などの彫刻、織田信長が寄進したという「黄金の雨樋」(通常は非公開)などを見て回った。
上の写真は本殿、中の写真は主な象・龍などの彫刻で見事なもの。下の写真右上は展望台から京都市内方面を望む、微かに京都タワーが見える。左下は廻廊、右下は「松花堂跡」である。

国史跡「樟葉台場跡」


28日から秋期京都非公開文化財特別公開が行なわれており、その1箇所である「石清水八幡宮」に自転車(約1時間)で行く途中、枚方市の八幡市との境界にある国史跡「樟葉台場跡」に立ち寄ってみた。
ここは平成23年2月7日、 内陸部の河川に面して設置された台場は珍しく、歴史的にも高い価値があるとのことで国の史跡に指定された。枚方市内では百済寺跡、牧野車塚古墳、禁野車塚古墳に続く4番目の国史跡となっている。ついこの3~4年前までは一面が田圃や畑だったが遺構の発掘作業もほぼ終わり?一帯が広々とした芝生の史跡公園に生まれ変わろうとしていた。 ここは、1854年、外国船が大阪湾に現れたという経緯もあり、文久3年(1863年)京都守護職である会津藩主松平容保は、外国船が淀川をさかのぼって京都に攻め込んでこないように淀川の両岸に台場を建築することを建白し、勝海舟が奉行となって建設を始めた。しかし、実際には長州藩などの反幕府側の人物や過激派を京に入れさせないための関門であり、要塞であった。淀川右岸には高浜台場、少し奥に梶原台場が造られ、左岸の楠葉台場は慶応元年(1865年)に完成した。南側から攻め上ってくる船や軍に向けて造られているため、南側のみが稜堡式(大砲を主要防御武器として設計した城で、多数の大砲が死角を補い合うように造られる。)の形式となっていた。結果的には、慶応4年(1868年)1月27日に勃発した鳥羽・伏見の戦いでは、新政府に北側から入ってこられ、北から攻められた場合を想定しておらず、防御陣地としては役に立たなかった。明治時代になり、付近は荒れ果ててしまっていたが、やがて南側の堀のみをのこし、土塁は潰され、他の堀は埋め立てられて田畑となり、1910年(明治43年)には京阪電気鉄道が開業し、遺構の西側は完全に潰された。 上の写真は山崎方面を望む。

2016年10月23日日曜日

「げんき~」Gの芸能ボランティア

今回、枚方市釈尊寺のグリンタウン集会所で地区老人会に参加の皆さん約30名(内男性4名)を対象に「げんき~」Gによる芸能ボランティアを行った。
今回、メンバーの参加が少なく4名で行った。 出し物はいつもの歌体操(4曲)→新舞踊(2曲)→「南京玉すだれ」→(新)「皿回し」→踊り「どじょうすくい」→踊り「おてもやん」の約50分の演技ボランティアだった。参加者の皆さんは元気そうな人たちばかりで、それなりに楽しいひと時を過ごしてもらった感じでよかった。 (*゚▽゚*)
今回、「げんき~」Gの出し物に新しい「皿回し」が加わってより充実してきたが、グループを結成して約6年にもなると体調を崩されている人も出て参加するメンバーも少なく、いつまで続くのか少し心配だ。

2016年10月18日火曜日

「下鴨神社」参拝

世界文化遺産「賀茂御粗神社(かもみおやじんじゃ)」(下鴨神社)本殿に参拝して、非公開の東御本宮・西御本宮、大炊殿、葵の庭、三井神社、御車舎などを見学した。昨年4月、式年遷宮が行われたこともあって、東御本宮・西御本宮(国宝)共に大変綺麗な本宮になっていたし、神聖なところに入れて心が和み落ち着いた。大炊殿(重要文化財、下の写真の右上))では神饌の煮炊き、調理を行う台所で、昔のままの状態でみることが出来た。また、ここから見える庭は双葉葵が自生し、「葵の庭」「カリンの庭」と呼ばれて、カリンの実も落ちていて趣のあるよい庭だった。
下鴨神社の正式名称を「賀茂御祖神社」という。京都を流れる鴨川と高野川に挟まれた三角地帯に位置する。御祭神の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は古代の京都山城を開かれた神さまで西御本宮。玉依媛命(たまよりひめのみこと)は賀茂建角身命のお子さまで東御本宮にそれぞれ祀られている。 下鴨神社の歴史は古く平安京が造営される遙か以前から神聖な場所だった。例えば、崇神天皇七年(紀元前90年頃)に神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録も残っている。平安京の造営に当たって、下鴨神社で造営祈願が行われ以来、国民の平安をご祈願する神社と定められた。 玉依媛命のお子さん「賀茂別雷大神」は上賀茂神社の御祭神で、下鴨神社と共に賀茂神社と総称され、京都三大祭りの一つ葵祭(賀茂祭)が両社で催されている。

鴨社資料館秀穗舎

平成28年度秋期京都非公開文化財「特別公開」が28日から11月27日まで21箇所で行われるが、上賀茂神社と下鴨神社だけが昨日(17日)より早く始まった。先般上賀茂神社は特別拝観したので、今回下鴨神社に行った。
参道の入口にある第34回式年遷宮奉祝事業の一環として、下鴨神社の学問所で絵師だった浅田家の旧邸を改修した鴨社資料館「秀穂舎(しゅうすいしゃ)」が10月1日に開館していたので入館してみた。神社に代々仕えた神職の家柄である社家はかつて同神社周辺に数多くあったが、現在は2軒だけが残る。中でも浅田家旧邸は江戸時代中期の全国でも数少ない伝統的社家建築で木造2階建て延べ90平方メートル。その保存と継承を目的に、旧社家の日常生活を復元した常設展示や、下鴨神社に縁のある人物や品を紹介する企画展などが開催されている。が、今回は開館記念特別企画展として「鴨長明資料展」として、「方丈記」の作者として知られる長明が使っていたとされるすずりを75年ぶりに公開のほか、狩野益信による江戸時代前期の肖像の掛け軸(初公開)など、長明ゆかりの資料30点が展示されていた。鴨長明のことが改めてよくわかった。
下鴨神社の糺の森にある「河合神社」は、鴨長明ゆかりの神社であり参拝した。鴨長明は、この河合神社の神官の家に1155年に生まれたが、さまざまな事情によりこの重職を継ぐことができなかった。このことから強い厭世感を抱くようになり、世の無常と人生のはかなさを随筆として著わした『方丈記』(行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらずの書き出し)を書くにいたったといわれている。大原から方々を転々として、58歳(1208年)のころに現在の京都市伏見区日野町に落ち着き、栖(すみか)としたのが「方丈」で、ここで『方丈記』を仕上げたとのこと。1216年6月8日(丁度800年前)、62歳で歿しがこの「方丈」は、移動に便利なようにすべて組立式になっていて、広さは1丈(約3m)四方、約2・73坪、畳約5帖半程度、間口、奥行とも1丈四方というところから「方丈」の名がある。この「方丈の庵」が河合神社にて公開されていた。(下の写真の右下)

2016年10月9日日曜日

大津祭り

大津祭り」を初めて知人と一緒に出かけて見物した。浜大津駅10時半頃に着き、徒歩約5分の浜通りの国道161線側に各曳山町から曳山が引かれて合流(集結)する様子、中町通りの商店街を引かれる曳山や曳山展示館などをみることが出来た。
昼食後は中央通りにある集結した13基の曳山展示場から祭本部前の観覧席を順々にコンチキチンの囃子と「からくり」を演じながら行く曳山や2基の神輿行列をもみて楽しむことが出来た。朝日新聞の朝刊によると3月に祭りが国の重要無形民俗文化財に指定されたことを記念して、神輿行列が半世紀ぶりに行われたとのこと、そのためかよく分からないが神輿が輝く金色ではなくくすんだ金色だったことがなんとなく理解できた。その後、「天孫神社」に参拝したが、大津であり広大な敷地にこんもりとした森の中に立派な本殿があると思っていたが、意外にこじんまりとした境内の歴史のある神社だった。その境内に祭りのため露店がぎっしりと並び、人出も多く参拝するのにも一苦労した。
この大津祭は、市内の中央部に位置する京町三丁目の天孫(四宮)神社の祭礼で、長浜曳山祭らと並んで湖国三大祭の一つに数えられている。この本祭には13の曳山町から13基の曳山が出され、終日コンチキチンの囃子と見事な「からくり」を演じながら市内を巡行する。いずれも江戸時代に製作された華麗な曳山は、まさに「動く文化財」の様相を呈しているといってよい。からくりは大津祭の特色の一つで、各曳山町や町の辻々約28ヶ所で実演される。五色布の采配棒の合図によって、からくり囃子に替わり、曳山屋台で精緻なからくりが披露される。いずれも曳山の名称にちなんだ所作の巧妙さと発想に富んだものが多く、観る人を楽しませてくれる。また、からくりと並んで曳山の装飾も祭礼の大きな見所の1つとなっている。装飾の代表的な幕類には、見送幕、胴幕(胴懸)、水引幕などがある。それらは各曳山町が競って豪華なものを誂えたり購入をしたものとのこと。

2016年10月7日金曜日

うめきたガーデン

JR大阪駅北側、都会の真ん中に花と緑があふれる「うめきたガーデン」(庭園)が7日に誕生。 国内外で活躍する庭園デザイナー、石原和幸氏が手がける2つの庭や10万株の花畑、植物の壁で囲まれた小径など、さまざまな花と緑が楽しめる庭園で、来年3月20日まで開催される。
庭園デザイナーの石原和幸氏は、サイトによれば22歳で生け花の『池坊』に入門。以来、花と緑に魅了され路上販売から店舗、そして庭造りをスタート。その後、苔を使った庭で独自の世界観が国際ガーデニングショーの最高峰である「英国チェルシーフラワーショー」で高く評価され、 2006年から3年連続金メダル受賞、 2012年から5年連続でアーティザンガーデン部門で金メダルを獲得。さらに部門内1位に贈られるベストガーデン賞とのダブル受賞も果たした。 2016年大会では全出展者から選出される最高賞のプレジデント賞を受賞した、 とのこと。庭園デザイナーとしては有名みたい。
 初日であったので、多くの入場者や関係者、TV放送局の取材などで賑わっていた。夕方のNHKニュースでも状況が放送されていた。大阪駅の北側で利便性も大変良いので、梅田に行ったついでに立ち寄るのもよいだろう!

2016年10月4日火曜日

上賀茂神社に参拝

旧三井家下鴨別邸を出て下鴨神社の横を通り、世界文化遺産である加茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)=上賀茂神社にウオーキング(約5km)しながら行った。
初めての参拝かと思っていたが、到着すると見たことのある風景が目に飛び込んできて、随分昔に参拝したことを思い出した。
本殿に参拝後に「国宝・本殿特別参拝とご神宝拝観」(拝観料500円)をした。ここで、神職より加茂別雷神社(上賀茂神社)の由緒・歴史、加茂祭(葵祭)の起源及び変遷などの話があって、簡単なお祓いがあった。そして神職の案内で普段入ることの出来ない神域へ、千年の時の流れを越えて、古の姿そのままの国宝である「本殿・権殿」の前にたたずみ、改めて参拝した。心も癒され安らぎを覚えた。神宝のある庁屋では、神社に参拝する様子の屏風や絵画、神職の衣装や織田信長・明智光秀・豊臣秀吉から上賀茂神社宛の書面なども展示されていた。
帰りは市バスで河原町三条で下車して京阪三条から帰宅したが、運動も十分出来たし京都で最も古い社での参拝も出来てよい一日だった(´▽`)

旧三井家下鴨別邸

重要文化財・旧三井家下鴨別邸(京都市左京区)の一般公開が1日から始まり出かけた。
豪商で財閥だったこの旧三井家の別邸は、下鴨神社の南のこんもりとした森の中にある。1925(大正14)年に建築された後、1949(昭和24)年に国に譲渡され、京都家裁所長宿舎に使われていた。2011年に重文に指定され、管理することになった京都市が翌年から保存修理を進めてきて、初めての一般公開となった。
この別邸の主屋は木屋町三条上ルにあった明治期の建物を、この地にあった三井家の祖霊社である顕名霊社(あきなれいしゃ)の参拝の休憩所として移築されたもの。現在その顕名霊社は昭和期に東京に移されているのでない。
今回の一般公開は主屋の1階部分と庭園のみで、望楼など2~3階は特別公開の11月19日~12月4日に見学ができる。通常日は望楼の2~3階が有料で利用できることになっている。
今回、池やこけが配置された庭園と座敷などが一体となった開放的な造りを堪能。玄関棟では、書院造りを基調としつつ天井を高くする洋式居室をも味わうことが出来た。 また、三井家が藤原道長の六男長家の五代孫右馬之介信生が近江国に土着し、武士になったのが三井家の始まりである。そして織田信長の上洛によって六角氏とともに三井家は逃亡し、伊勢国松坂に居住するようになったとされる。その後、武士を廃業して松坂に質屋兼酒屋を開き、商人としての三井家が創業されたとのことなど三井家の系譜などを学ぶことが出来たヽ(;▽;)ノ