「北野天満宮」に参拝し、宝物殿の非公開文化財特別公開を見てから「北野天満宮」の東隣にある京都五花街の一つである上七軒をはじめて散策した。五花街とは祇園甲部、祇園東、上七軒、先斗町、宮川町の五つである。
現在(2011年当時)、お茶屋10軒で芸妓、舞妓合わせて約28名(舞妓は7~8名)、五花街ではこじんまりとした花街。散策したのが真昼間だったので人通りもすくなく、舞芸妓さんにひょっとしたら会えるのかと期待したが全くダメだった。この上七軒一帯は、京都市の「上京北野景観整備地区」に指定されているらしいが、景観にそぐわない建物も見られた。また、3月下旬から4月上旬に催される「上八軒歌舞練場」や夏に行われるビヤガーデン・盆踊りの会場などをみて回った。ここ上七軒で超人気の今年舞妓から芸妓さんになった勝奈さんのお茶屋「一文字」前には行かなかった。(勝奈さんのお茶屋を知らなかったから)
ここ上七軒は、文安元年(1444年)北野天満宮の社殿の一部が焼けた時、第十代室町幕府将軍足利義稙(よしたね)が、所司代細川勝元に命じて、社殿の造営をさせた。その時、余った材木で七軒の茶屋を建て、参詣人の休憩所とした。これが上七軒の由来。その後、天正15年(1587)、太閤秀吉10月1日から十日間北野松原で大茶会を開く発表をした。「茶の湯熱心のものは、若党、町人、百姓、身分を問わず来座を許す。茶の道具のないものは湯のみひとつでもよい。服装履物は どんなものでもよい。」とのお触れをだした。初日は1000名以上の者が参加したが二日目から中止となった。その理由は未だにわからないらしい。北野大茶湯の時、上七軒茶屋を豊臣秀吉公の休憩所として、名物の御手洗団子を差し上げたところたいへん喜ばれ、七軒茶屋に御手洗団子の山城一国における販売権を認め、法会茶屋株を認可した。これが上七軒の始まりで京都五花街の中で七軒屋がもっとも古い。北野天満宮に仕える巫女は、少女であったが成熟すれば上七軒の茶立て女となった。後に茶立て女は北野天満宮の参拝客を歌舞音曲でもてなすようになった。 戦前はお茶屋50軒、芸妓、舞妓あわせて60名いたが、第二次世界大戦で、大半は転業、廃業したが終戦後お茶屋35軒あったが西陣織産業の衰退により、舞妓はゼロとなリ、存続が危ぶまれた1981年より 舞妓が増え始めた。現在、祇園甲部が芸妓総数119人と最も多い(うち芸妓86人、舞妓33人)。祇園甲部に次いで宮川町、先斗町の芸妓数が50人以上と多くなっている。上七軒は28人、祇園東は17人と少ない。
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