2017年11月26日日曜日

山県有朋の別荘「無鄰菴」

友だちのIさんと「がんこ高瀬川二条苑」で舞妓・富津愈さんの舞をみて昼食後、山県有朋の別荘「無鄰菴(第三)」を訪れた。(今回で3回目で紅葉の時期は初めて)
ここは明治・大正の元老である山県有朋(やまがたありとも)が京都東山に造営した別荘である。
有朋は京都の木屋町二条に別荘(現在、がんこ高瀬川二条苑)を構え、その名を「第二無鄰菴」といい、さらに新しい地に好みの別荘を作りたいと考え、明治27年、現在の地で「無鄰菴」の造営にとりかかり、工事中に日清戦争の勃発により一時中断したが、明治29年(1896)に完成した。有朋はこの別荘の庭園をこよなく愛し、多忙な公的生活の合間にも夫人を伴ってしばしば訪れたが、その後大正11年に83歳で死去。 敷地の大半を占める庭園(面積約3135平方メートル)は、有朋自らの設計・監督により、造園家・小川治兵衛(じへえ)が作庭したものである。ゆるやかな傾斜地に、東山を借景とし、疏水の水をとり入れ、三段の滝池、芝生を配した池泉廻遊式庭園である。(以上、パンフレットなどから抜粋)
天王寺の住友本家跡の「慶沢園」や平安神宮の庭園など多くの庭を手がけた治兵衛作の庭園をゆっくりと散策し、また母屋(和室)に座り心静かに庭園をみてひと時を過ごした。紅葉が綺麗であった。
また、別荘内にある洋館は明治31年の建立で、2階には江戸時代初期の狩野派による金碧花鳥図障壁画で飾られた部屋があり、ここで明治36年(1903)4月21日,元老・山県有朋、政友会総裁・伊藤博文、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎の4人によって、日露開戦直前のわが国外交方針を決める「無鄰菴会議」が開かれた部屋が、当時のまま保存されていた。

0 件のコメント: