2016年9月25日日曜日

京都迎賓館

京都迎賓館の参観に、ネット申込みができない状態のため当日申込みで出かけた。迎賓館西門に10時5分前に着いたがすでに50名程の列が出来ていた。整理券が配布される11時頃には100名程?の長蛇の列になっていた。11時前から12時15分、30分、45分、13時15分・・・の当日申込のガイドツアー(定員30名)の整理券が配布され、12時30分ツアーの整理券を得ることが出来た。約1時間があり隣の一般公開されている京都御所に行って時間を潰した。
12時30分ツアーに全員(30名)が揃った時点で、係員(女性ガイド)の案内で、地下駐車場にて荷物検査・身体セキュリティーチェックが行われ、自動販売機で入場料1500円支払う。係員から事前の注意説明があり12時30分に出発し地下から地上に出て、正門→正面玄関→聚楽の間→夕映えの間→藤の間→桐の間→廊橋・庭園の概要説明を受けながら約60分の見学をした。
この京都迎賓館は日本の歴史、文化を象徴する京都で、海外からの賓客を心をこめて迎え、日本への理解と友好を深めてもらうことを目的に2005年(平成17年)4月に建設された。歴史的景観や周辺の自然環境との調和を図るため、日本の伝統的な住居である入母屋屋根と数寄屋造りの外観をいかし、築地塀を巡らせた品格のある和風の佇まいを創出している。建設に当たっては、数寄屋大工、左官、作庭、截金(きりかね)など、数多くの伝統的技能を活用し、京都を代表する伝統技能者の技が生かされている。また、調度品についても西陣織や蒔絵(まきえ)、漆などの伝統的技能を活用した家具が配置されている。
今回、入母屋屋根と数寄屋造りの外観や聚楽の間、夕映えの間、藤の間、桐の間の和室などで伝統的技能者によって和の技が生かされた多くの建造物をみることが出来た。

2016年9月24日土曜日

映画「ハドソン川の奇跡」

 映画「ハドソン川の奇跡」が一般公開された。あらすじは2009年1月15日、150名の乗客、5名の乗員の155名を乗せたUSエアウェイズ1549便は、シアトルに向かいニューヨークを離陸した。しかし、160万人が住む大都会・マンハッタンの上空850メートルで、数羽の鳥がエンジンに吸い込まれ突如全エンジンが完全停止。制御不能となるトラブルが発生。機長は、ベテラン操縦士のチェズレイ・サリー・サレンバーガー機長(トム・ハンクス)が制御不能となった機体の墜落までのリミットはわずかに208秒しかない中で、機長は機体の安定を図りながら、着陸の方法を模索し、このままでは乗客の命はおろか、大都会ニューヨークの街中に墜落する危険性がある中、機長は決断をする。「ハドソン川に着水するぞ!」究極の状況の中、機長・サリーは、見事難易度の高いハドソン川への着水を成功させる。乗客155人は全員生存・救出され、サリーは一躍国民的英雄になる。が、機長の「究極の決断」に思わぬ疑惑がかかり、容疑者になり国家運輸安全委員会(事故調査委員会)の厳しい追及が行われる。飲酒、睡眠不足、健康状態、家庭不和などの追求、本当にハドソン川への不時着以外の選択肢はなかったのか?その判断は、乗客たちを命の危機にさらす乱暴な判断ではなかったか?などと問い詰められる。容疑者になってしまったのは、事故からわずか208秒間のことだった。この208秒がコンピュータによるシュミレーションやボイスレコーダーから、機長の冷静な判断と無事着水の技術力などが明らかになり、また副操縦士スカイルズの存在や客室乗務員の存在で、手順通り冷静に事態の対処にあたったことも全員生存に大きく貢献した。そして管制室や救助にあたった水上タクシーと沿岸警備隊、観光ヘリの存在もあり、それらすべてが重なり合ったのが「ハドソン川の奇跡」となった。 厳しい追求の中で機長の決して揺らぐことのない人間性が描き出された映画だった。

2016年9月18日日曜日

京都「仙洞御所」参観

前から京都の仙洞御所を参観したく、4日前にネットを調べると、この18日(日)11時から4名申し込み可能になっており早速申し込みして出かけた。 自宅を出るときはどしゃ降りであったが、京阪神宮丸太町駅に着いた頃には雨もやみ助かった。10時40分過ぎに着くと当日券の受付が始まっていて20名程並んで手続きをしていた。待合所に行くと自分一人で、いつも40~50名の参観者があるらしいが、予約の11時は以外に少なく、たったの10名。11時から男性ガイドによって12時まで説明しながら庭園を案内してもらった。参観コースの概要は、大宮御所の車寄せ→御常御殿の南庭→北池を一回(六枚橋→紅葉橋)→南池を一回り(八つ橋)→醒花亭→又新亭だった。雨がしとしと降る中で庭園のもみじや木々が青々として、また苔も大変綺麗でさすがに素晴らしい庭園だった。秋は紅葉で特によいだろうから機会があれば、また参観したい。ただ、ネットの申し込みは申し込み人員が少数であり取れそうにない状況のようだ。当日券を朝早く並んで取るしかないと思う。
この仙洞御所とは、退位した天皇(上皇・法皇)の御所。仙洞とは本来仙人の住み処をいう。そこから転じて退位した天皇(上皇・法皇)の御所をいい、さらに転じて上皇・法皇の異称としても使われた。 現在、京都御所の南東に仙洞御所が位置している。これは1627年に後水尾上皇のために造営されたもので、正式名称は桜町殿という。東部には広い池を中心に庭園が広がっている。初め小堀遠州によって築庭されたが、のちに後水尾上皇の意向により大きく改造されている。仙洞御所の建築群は1854年の火災後再建されず、現在では庭園のみが残っており、1867年以降には隣りの御常御殿が残る大宮御所に組みいれられ、皇室の京都における邸宅として整備されて今日に至っている。

2016年9月17日土曜日

特別展「星野道夫の旅」

没後20年の特別展「星野道夫の旅」(写真展)が高島屋大阪店7階グランドホールで開催されたので見てきた。
アラスカに魅せられ、かの地を棲家にして壮大な自然の世界を描写した、たぐいまれな写真家・故星野道夫(1952~1996年)。彼がカムチャツカの地で、取材中に不慮の死を遂げてから2016年8月で20年となり、残された多くの写真や文章は、いまだに多くの人々の心を魅了し続けている。そこで、今回は星野道夫が駆け抜けた、幾多の道をひもとく未発表作を含むおよそ250点の写真をはじめ、自筆の文章や手紙、撮影に使用したカメラなどを展示するとともに、愛用したカヤック、スノーシュー、毛皮のパーカー(アノラック)も展示されていた。アラスカの大自然と動物たちの写真は、素晴らしく見ごたえのあるもで感動した。
1996年8月8日ヒグマに襲われて不慮の死を遂げた事件の概要は、関連サイトに掲載されていた。それはTBSの『どうぶつ奇想天外!』の放送番組の取材目的で、「ヒグマと鮭」を題材にした写真を撮影するためTBSのクルーと共にロシアのカムチャッカ半島南部のクリル湖畔(ロシアで熊が最も多いとこ)へとやってきた。付近には身の安全を確保できる小屋や「鮭観察タワー」などの宿泊施設があったものの、彼は敢えて湖畔のほとりにテントを設置し、そこへ寝泊りすることを選択。この季節は7月。「この時期は、サケが川を上って食べ物が豊富だから、ヒグマは襲ってこない」との見識に基づいた判断だった。体長2m超・体重250 kgの巨大な額に傷を負ったヒグマが到着してから2日後の夜、宿泊用の小屋に備え付けてある食糧庫によじ登り、飛び跳ねて荒らしていた。 このヒグマ、数日前にも食糧庫を荒しており、どうやら空腹のようだった。それはこの年、サケの遡上が例年よりも遅れていたためらしい。さらに、この額に傷を負ったヒグマが、地元テレビ局の社長によって餌付けされていたため、人間への警戒心が薄かったとも考えられている。しかしこの時、そんなことは分かっていなかった。「たまたまだろう」と思ったのか、星野は再三に渡るガイドの忠告を聞き入れず、テントでの宿泊を続行。そして、2週間が経過したある日の深夜に悲劇は起こった。キャンプ場に突如として響き渡る絶叫。その声がすぐに星野のものだと分かったTBSスタッフは、急いで小屋から出て懐中電灯で照らすと額に傷のある例のヒグマが彼を咥えて、悠々と森の中へ戻っていく姿が見えた。テントはひしゃげてポール(支柱)は折れ、星野の寝袋は切り裂かれていた。ガイドが無線で救助を要請し、ヘリコプターで到着した捜索隊は上空からヒグマを捜索し、発見すると射殺した。星野の遺体は森の中でヒグマに喰い荒らされた姿で発見されたという。アラスカでグリズリーの写真を幾度も撮影してきた実績のある、いわばその道のプロフェッショナル。当然、熊の習性などは熟知していたはずなのになぜ、このような悲劇が起こってしまったのか謎になっている。

2016年9月15日木曜日

酔芙蓉の寺「大乗寺」

 一週間程前に京都山科の旧東海道沿いの山裾にある「酔芙蓉の寺」として知られる小さなお寺「大乗寺」の酔芙蓉が見頃になっているとNHKが放送したので、去年とは大分早いと思いながら訪れてみた。やはりまだチラホラと咲いている程度で放送とは程遠い状況だった。住職(婦人)に聞くとNHKが撮影した時はある程度咲いていて、それをすごく咲いているようにうまく撮影していて、あとで放送をみて感心したとの話があった。ということで、見頃は今月末頃にならなとダメという感じだった。
ここの酔芙蓉は約1300本が小さな本堂を囲むように植えられている。 芙蓉といえば木芙蓉のことを指し、朝に咲き、夕方には萎んでしまう一日花である。早朝に開花したときには本来の淡紅色、夕方になるにしたがって、その色は次第に濃くなり、そして萎んでいく。 一方、酔芙蓉は、朝のうちは純白、午後には淡い紅色、夕方から夜にかけては紅色になる。酒を飲むと顔色がだんだんと赤みを帯びるのに似ていることからこの名がついたといわれている。
芙蓉は、全国各地の庭先や公園など、どこででも目にすることができるが、群生している名所となると寺の境内が多いようである。一方、酔芙蓉となるとなかなか群生しているところは少なく、千本以上あるこの大乗寺は珍しい存在であるとのこと。 今回、残念ながら早すぎた感じだが、機会があれば今月末に再度訪れたいものだ。

2016年9月10日土曜日

「超高速!参勤交代リターンズ」

2014年7月に公開された「超高速参勤交代」が大ヒットし、次作として本日公開された。前作の「超高速参勤交代」がよかったので、今回も見に出かけた。
あらすじは、前作で見事江戸への参勤を成し遂げた磐城国(現在の福島県いわき市)の湯長谷藩だったが、そもそも参勤交代とは、〈参勤〉だけでなく、藩に帰る〈交代〉まで終えてこそ完結するもの。湯長谷藩の参勤交代は、まだ終わっていなかった・・・!藩主・内藤政醇(まさあつ:佐々木蔵之介)率いる一行は故郷を目指し、ゆっくり江戸を出発したが、その道中、湯長谷で一揆が起きたとの知らせが入る。2日以内に一揆を収めなければ、藩のお取り潰しは免れない。彼らは行きの倍の速さで帰るはめに。川でおぼれ、お尋ね者になり、謎の刺客に襲われ、命からがら湯長谷にたどり着くが、すでに城は乗っ取られた後だった。帰ってみると田畑は荒らされ、家族は城内で人質になり、ひどい状態だった。そこで、まず策略でうまく城内の連中を外に出し、城を奪い返すが、悪家老である松平信祝(のぶとき)が1000人を連れてやってくる。それに立ち向かい農民とともに大ピンチを切り抜ける。ここでやっと交代が終わって農民とともに喜び合うというもの。
この映画の滋賀県のロケ地は高島市(安曇川町)と彦根市(彦根城)で、城が乗っ取られ戦いを挑む場面は高島市安曇川町で、また爆破やスモークなど派手なシーン、湯長谷藩に帰る途中の「大沼宿」もここで撮られた。帰路に刺客に襲われるシーンや、城内での戦いのシーンは彦根城で撮影された、とのこと。 前回と同じように滋賀のロケ地が使われたようだ。 前回と同様に困難を奇策で切り抜けることなど面白い映画だった。

2016年9月8日木曜日

神戸三宮「游の会」作品展


親友から誘いがあり、神戸市役所の市民ギャラリーで「游の会」作品展を見に親友3名で出かけた。この「游の会」作品展には油絵22点、水彩画12点、水彩・パステル、ペン10点、ハガキ絵10点、扇子絵8点などと旅のスケッチブック数冊が展示されていた。広々とした会場にこれらの作品が展示されていて、ゆっくりとみて楽しむことが出来た。(上の写真)
この会の講師の旅のスケッチブックをみると海外の教会、建築物、風景、植物、花、人物などがスケッチされて、これらは約5分程度で仕上げるとのこと、すごいなぁ~と感心、その程度で描けるようになれないかと思うが、努力してもダメかなぁ~~。 
その後、市役所24階にある展望ロビーから東は六甲アイランドやHAT神戸の街並みが、南からは東遊園地からポートアイランド(中の写真)、西はハーバーランドの街並みなどが見ることができた。また、反対方向(北)からは、三宮から北野の街並みや六甲山系の山並みまでが眺望できて楽しむことが出来た。昼食は神戸国際会館9Fの「維新號點心茶室」にてランチ「點心茶室セット(1600円)」で美味しく食した。
その後、神戸港遊覧船(オーシャンプリンス)で約45分の久しぶりの神戸港内クルーズを楽しんだ。(下の写真が乗船した神戸港遊覧船:オーシャンプリンス)

2016年9月7日水曜日

京都黄檗宗「石峰寺」

5日付け朝日新聞に江戸時代の絵師、伊藤若(1716~1800)ゆかりの黄檗宗「石峰寺」を訪ねて!という記事が掲載された。少し興味もあり京阪深草駅下車して徒歩約10分にあるこの黄檗宗「石峰寺」を訪ねてみた。(上の写真)
命日の9月10日若冲忌に合わせて、「石峰寺」が所蔵している掛け軸や版画など、若冲の作品を一般公開する秋の特別展示会が、9月1日から若冲忌の9月10日まで行われていて、うまい具合に若冲の掛け軸(動植物を描いた彩色画)を鑑賞することが出来た。また今、若冲ゆかりの相国寺(承天美術館)でも生誕300年記念伊藤若冲展が行なわれている。機会があればみに行きたいものだ。
斗米庵とも号した伊藤若冲は、五百羅漢(羅漢とは人々から尊敬・布施をうける資格のある人の意で,悟りをひらいた高僧を指す)はもちろんのこと、動植綵絵が代表作の一つとして知られる、江戸時代中期の京都で活躍した日本画家。元は錦小路の青果問屋の主で、30代より禅に親しみ、40歳の時に隠居したのちは画作に専念し、独特な作風で数多くの作品を生み出している。 晩年には「石峰寺」門前に庵を結び、85歳でその生涯を終えた。石峰寺の境内には、斗米庵若冲居士墓とある若沖の墓がある。(下の写真) 本堂の裏手の竹林にある五百羅漢は、伊藤若冲が60才になった時、五百羅漢を刻むことを思い立ち、五百体にも及ぶ下絵を描き、石職人に頼み、10年をかけて五百羅漢を配したとのこと。当時は千体以上のもの石蔵が配されていた。現在では五百数十体の石蔵で長い年月を物語るように丸くなり、苔が生え風化に伴い表情や姿態に一段と趣を深めているそうだ。(中の写真)
今回、はじめて画家伊藤若冲という人や、若冲ゆかりの「石峰寺」のことが勉強になった。

2016年9月3日土曜日

「サントリー1万人の第九」練習

今年、第34回を迎える「サントリー1万人の第九」の練習がスタートした。 本番の12月4日(日)までに6回の合唱練習、佐渡指揮者の総合レッスン、前日3日のリハーサルがある。 クラスは「森ノ宮2」(約150名)で、指導は昨年と同じく有本正人先生だった。
この「サントリー1万人の第九」は、2000年に初めて参加して以来、今回で16回目、1999年フェスティバルホールで朝日新聞120周年記念演奏会の第九に初出場して、通算で50回目(11月6日のかがわ第九含む)となる。 すごいかなぁ~?? 何となく惰性で出場している間に出場回数も上がって今日に至った。目標としている50回は今年で達成できそうだ。 まずは、今回の本番に向けて頑張ろう!!