2015年10月31日土曜日

野菜づくり

今年のサツマイモ掘りも終わり、その畑に玉ねぎ苗を植え付ける時期となった。
今回は長期保存(2017年3月まで保存可、収穫は来年6月末)のネオアース・もみじ3号(この名称の玉ねぎは、初めてで新種??)を各100本、早生ラムダ(来年5月末に収穫可)50本、赤玉ねぎ50本の計300本を植えた。
今回は、例年よりも50本程度多くなってしまった。

2015年10月29日木曜日

芸能ボランティア

今回は老健施設「しらかば」を訪問して「げんき~」G(メンバー6名)による芸能ボランティア活動を行った。
その概要は、いつもの出し物である歌体操(4曲)→新舞踊(2曲)→踊り「どじょうすくい」→「南京玉すだれ」→踊り「おてもやん」→全員で踊りの「河内音頭」(2曲)、「炭坑節」で約60分。 
約30名と職員合わせて40名の中での芸能ボランティア活動だったが、最後に入所者の方や職員と一緒に「河内音頭」や「炭坑節」を踊り、それなりに楽しんもらってよかった。(*゚▽゚*)

2015年10月27日火曜日

ピースおおさか

JR森ノ宮駅から徒歩5~6分にある「ピースおおさか(大阪国際平和センター)」を見学した。65歳以上は運転免許書などの証明があれば無料。
ここ「ピースおおさか」は、1991(平成3年)年に平和の首都大阪の実現をめざし、大阪府民・市民の協力のもと、世界平和に貢献することを目的に、大阪における平和の情報発信基地として開館された。以来24年余が経ち、これまでに延べ188万人の来館があったとのこと。
館内は、展示のAゾーンでは空襲で焼け尽くされた大阪の超拡大写真が展示され、現在の大阪の様子とともに伝えるところであった。 Bゾーンでは空襲に至った背景としてなぜアメリカと戦争をしたのか、また日清・日露戦争から太平洋戦争までを写真や動画などで解説するところ。 Cゾーンでは空襲に備えた当時の様子など伝えるところ。 Dゾーンでは多くの犠牲を出し、焼け野原になった大阪の様子を実物資料、体験者の証言などで伝えるところ、ここでは10人程度が入れる防空壕、1トン爆弾(複製模型)、被弾した鉄カブトなどの展示がしてあった。 Eゾーンでは戦後、GHQによる占領下から高度成長を経て発展する大阪の姿を伝える展示であった。 それ以外に戦争に関する書籍・資料やDVDの閲覧、映画も上映されていた。
今回、これを見て大阪空爆では、すごい被害があったことがよく分かり、また当時の暮らしぶりなど改めて知ることができた。

2015年10月23日金曜日

るろうに剣心

読売TVの金曜ロードショーで、21時から「るろうに剣心」の放送が行われた。エキストラに参加した映画でもあり懐かしく最後までみた。
この映画は2012年8月に公開されものであるが、思い起こせば2011年8月2~4日の3日間エキストラとして参加。この3日間、朝6時に浜大津のアーカス横の駐車場に集合し、衣装替えと化粧を滋賀銀行保健センターで行い、撮影現場(三井寺・善法寺の竹林)へ、午後6時ごろに終了し、帰宅は午後9時。朝が早くて帰宅が遅いため相当疲れたが、あの当時としては体力もあり?へこたれることなく3日間続けられた。また、撮影が終了してバッタリと主演の佐藤健くんに会い、一言会話したこともあって非常に思い出の映画。
この3日間撮影された「鳥羽・伏見の戦い」は、1868年1月に起こった合戦で、真夏に竹林に雪を積もらせ雪を降らせながらのスゴイ合戦シーンの撮影で、その雰囲気が見事に映し出されていた。約10分?のスゴイ合戦のシーンの中で、我々エキストラのほとんどは討ち死にの状態で倒れているシーンや勝利の歓声をあげるシーンなどであったが、画面にはっきりと映っていなかったのは、少しザンネン。 写真をみると、まあ~すごい格好で参加したものだと、これも思い出の一つだ。
30日(金)は「るろうに剣心」京都大火編、6日(金)に伝説の最期編が放送される。すでに観ているが、再度観てみよう。

大乗寺の酔芙蓉

京都山科の山裾にある「酔芙蓉の寺」として知られるようになった小さなお寺の「大乗寺」へ。今では酔芙蓉が約1300本が本堂を囲むように植えられている。見頃は9月中旬から10月中旬までとのことであったが出かけてみたが、さすがに見頃は一週間過ぎてしまっていた。しかし、まだところどころ綺麗な酔芙蓉が咲いていた。(写真)
芙蓉といえば木芙蓉のことを指し、朝に咲き、夕方には萎んでしまう一日花である。早朝に開花したときには本来の淡紅色、夕方になるにしたがって、その色は次第に濃くなり、そして萎んでいく。  一方、酔芙蓉は、朝のうちは純白、午後には淡い紅色、夕方から夜にかけては紅色になる。酒を飲むと顔色がだんだんと赤みを帯びるのに似ていることからこの名がついたといわれている。
芙蓉は、全国各地の庭先や公園など、どこででも目にすることができるが、群生している名所となると寺の境内が多いようである。
一方、酔芙蓉となるとなかなか群生しているところは少なく、千本以上ある本寺(大乗寺)は珍しい存在であるとのこと。
今回、残念ながら見頃が過ぎていたが、また来年は是非訪れたいものだ。

2015年10月21日水曜日

淀屋橋~道修町散策

 親友と1年ぶりにカメラを持って街を散策して昼食でもと、10時40分に淀屋橋で待ち合わせた。
親友がNHK連続テレビ小説「あさが来た」を見ているとのことで、まず肥後橋の大同生命ビルで展示している「加島屋と広岡浅子」展をみてから、ヴォーリズ建築であった旧大同生命ビルで残されている建造物などの写真を撮った。
昼食は北浜の老舗、日本料理の「光林坊」で、美食御膳を食べた。(写真はすごく豪華に見えるが、3つの鍋料理の中の1つを選べるがすべての鍋料理が並べられているため) 本格的な日本料理で大変美味しかった。 一人ではこのような有名な老舗で食べないが、親友と一緒でもあり、たまには贅沢もよいだろう。 ここはアサヒメートの会員であるため安く食べられた。
この「光林坊」は昭和43年11月に、加賀百万石の城下町、金沢の絢爛豪華さをテーマに加賀料理を提供する「光林坊1号店」が東京・新宿に開業、その後3号店として平成元年12月に関西初出店となる「光林坊北浜」が、古くから豪商の街と呼ばれる北浜の地に誕生し、今日に至っているとのこと。 地下1階のため、夜の雰囲気にもなり高級と言うか落ち着いたよい料亭だった。 その後、道修町の田辺三菱製薬㈱の資料館(2015年5月にオープン)を見学した。 今日は素晴らしい秋空のもと、散策と美味しい日本料理で満足の一日だった。(´▽`)

2015年10月20日火曜日

新枚方市長の所信表明

8月30日に行われた枚方市長選挙において、3期目を目指した前市長との激戦で僅差にて当選した「大阪維新の会」の新枚方市長伏見 隆氏の所信表明が行われた。枚方に住んで40年、初めて市議会の傍聴に出かけた。当選して初めての所信表明であり、傍聴席は満席(約30席)であった。
所信表明で、今後めざす新しい創造に向けた骨格を形成するための重要なキーワードとして次の4点をあげられ詳細説明があった。1)人が集まるまちづくりをスタートする。①枚方市駅周辺再整備など年基盤整備の充実、②安心して楽しく子育てできる環境の整備、③子どもたちの未来への可能性を最大限に伸ばす学校教育の充実。 2)高齢者が健康でいきいきと暮らせるまちづくりの推進。 3)協働によるまちづくりの推進。 4)将来世代に大きな負担を残さない徹底した市政改革。(詳細説明は省略) これらを実現するため、前例や規制概念にとらわれることなく、本当に支援が必要な方にきめ細かなサポートを行うなど、柔軟かつ大胆でメリハリのある施策展開を行うということだった。これ以外には、美術館整備をゼロベースで見直しするとの表明もあった。 この所信表明(約30分)を受けての代表質問が27日・28日に行われ、より詳しいことが解ると思われるので、また傍聴したいと思う。 新市長には市長選で訴えられた「枚方を変える」を、是非頑張って実現して欲しいと強く願望し、また応援もしたいと思う。

2015年10月15日木曜日

ヴォーリズ建築

最近、故ウィリアム・メレル・ヴォーリズさんのことをもう少し知りたくて、近江八幡を訪れた。今回は現在残っているヴォーリズ建築や記念館などを見物した。
故ヴォーリズさんの概要は、以下の通り。
キリスト教伝道の熱き志をもって近江八幡に足を踏み入れたのは、今からおよそ100年前の1905年2月2日のこと。滋賀県立商業学校(現八幡商業高等学校)の英語教師として英語を教える傍ら放課後バイブルクラスを開設し、多くの学生をキリストに導き、学生たちの人生に大きな影響を与えた。このことが原因で、彼は教育現場から追われた。しかし、「挫折と意気消沈の只中」から不退転の決意をもって立ち上がり、建築設計事業を始め、自給自足の精神をモットーに情熱的に社会事業を展開。びわこ湖畔にYMCA活動やキリスト教伝道・教会建設をしながら、近江サナトリウム(結核療養院・現ヴォーリズ記念病院)を開設。学校教育(現ヴォーリズ学園)事業を夫人一柳満起子と共に起こし、キリスト教伝道・医療・福祉・教育事業を展開して地域社会を始め、日本国内に歴史的な足跡を遺した帰化日本人である。彼はこれらの社会事業を財団法人近江兄弟社の事業として位置づけ、その事業展開のための資金調達を建築設計(現一粒社ヴォーリズ建築事務所)や家庭常備薬メンソレータム(現メンターム)の製造販売(現㈱近江兄弟社)によって成し遂げた。彼(ヴォーリズ)は生涯私有財産を持たず、すべてを社会事業のために捧げ、自ら住んでいた住居(現ヴォーリズ記念館)さえも私物化しなかった。ヴォーリズが建築設計家として日本に遺した建造物は1600を数え、今も多くが現存している。彼が社会のために立ち上げた事業は、近江兄弟社の事業として、その精神と共に継承され、現在6法人・15事業体に発展している。(以上、関連サイトから抜粋)
写真上が「ヴォーリズ記念館」(昭和6年建築)でヴォーリズ夫妻が後半生最後まで住んだ住宅である。その内部の一室のみ見学が出来て、若干24歳で米国から近江八幡に来て、そこに留まったヴォーリズ(日本名:一柳米来留)の信仰と自給自足による社会事業の足跡がよく分かる。写真中は、大正時代に建築されたアメリカ式の洋風住宅の1棟、写真下は旧八幡郵便局である。
今回は時間的に行けなかったところもあり、再度訪れたい。若干24歳で米国から近江八幡に来て、これだけのことを成し遂げたことはすごいことだと改めて思う。

2015年10月13日火曜日

奈良「植村牧場」

2年前に「植村牧場」代表の黒瀬礼子さんの講演を聞いて、一度訪れたいと思いながらやっと今回、念願がかなった。この牧場は「般若寺」の真向いにある広さ約1800坪の小さな牧場である。
「植村牧場」代表黒瀬礼子さんの講演の概要を再記述すると、まず「牧村牧場」三代目の姉妹の長女として生まれ、幼少のころから牧場の手伝いしながら育ち、牧場の跡継ぎはイヤだとの思いで大学卒業後大阪の会社に4年ほど就職、三代目の父親(獣医)が病に倒れられ四代目の牧場主になった。元々は初代が病弱だったため「自分の健康のために飲むつもり」で乳牛を飼いはじめたのが「植村牧場」のはじまりで、明治16年創業以来一貫して新鮮な牛乳を届けるため努力してきた。現在は30頭の牛を飼育し、一日1500本の低温殺菌牛乳を奈良一円の一般家庭に届けるほか、奈良ホテルやレストランに宅配。週末には京都や大阪から保冷庫を抱えてやってくる人もいるとのこと。機械化が進む中、手作業で1本1本真心をこめて製品にしているが、ある意味では日本一遅れた牧場かもしれない。また、ここには15名余りの重度の知的障害者を受け入れ同居しながら牧場運営し、その人達が日夜がんばって働いていること。映画化(小さな町の牧童たち)もされ、数多くのドキュメンタリー番組も企画されるなど注目をうけていること。カフェ&レストラン「いちづ」もやっているので、ぜひ遊びに来てほしいこと。など々であった。 上の写真が「植村牧場」の入口で、すぐ右がカフェ&レストラン「いちづ」があり昼食に「オムライス」を注文して食したが、味はまあまあだった。その奥に牛舎(下の写真)1棟あり、30頭の牛が飼育されていたが、建家は相当古い感じだった。牛舎は衛生上立ち入り禁止であるが、それ以外は自由に見られるが、特にこれと言って見るところはないようだった。

奈良「般若寺」

コスモス寺として有名な奈良の「般若寺」へ参詣した。
この寺院は東大寺の北側、奈良坂に位置し、飛鳥時代に高句麗僧慧灌(えかん)法師によって開かれた最古の寺院。
今は四季折々の花が咲く寺として有名になっている。特に秋のコスモスは10種類、約10万本のコスモスが境内に咲き乱れる。 特に十三重の石塔(左下の写真)や三十三観音石像周辺を覆い尽くす花は見事で多くの観光客を魅了している。
楼門(ろうもん、上の写真)は鎌倉時代にお寺を再興したときの回廊門で、「般若寺」の中で唯一国宝に指定されている。 屋根の反り具合などなかなか美しい建造物である。 詳しくは「般若寺」のサイトを!!

2015年10月11日日曜日

芸能ボランティア

芸能ボランティアG「げんき~」で、今回初めての訪問施設「リハビリテーション特化型デイサービスすぷらうつ」にて芸能ボランティア活動を行った。
持ち時間が30分(午前11時30分~12時)のため、出し物は、どじょうすくい踊り、南京玉すだれ、おてもやん踊り、踊り「河内音頭」と「炭坑節」。
参加者は入所者や職員で約20名、いつもよりも少なく寂しい感じだったが、それなりに楽しんでもらいよかった。(´▽`)
上の写真は、どじょうすくい踊りで、下の写真は、踊りの「炭坑節」。
この「すぷらうつ」は、転倒予防・介護予防・自立支援を目的とした機能訓練を行う、リハビリに特化したデイサービスを提供するところ。スタッフ全員が介護予防運動指導員を取得しているほか、最新の機器も揃い万全の体制が整っているとのこと。名前のすぷらうつ=sproutsは、新しい芽吹きという意味。「新しいことが達成できた時の喜びを一緒に分かち合いたい」との願いが込められているとのこと。

2015年10月9日金曜日

朝日新聞社・福島工場


2年前の6月に新しい中之島フェステバルタワーに本社が移転した機会に本社を見学して以来、新印刷工場を見学したいと思いながらやっと今回、実現した。
朝日新聞の印刷は、㈱トッパンメディアプリンテック関西(TMK)という、凸版印刷と朝日新聞社が共同で設立した会社(平成24年6月設立)で行われている。ここでは、朝日新聞の朝・夕刊をはじめ、日刊スポーツなどの協力新聞を大阪市、大阪府北部、奈良県などの地域へ向けて印刷・発送している。朝刊約60万部、夕刊30万部、日刊スポーツ、朝日小学生新聞、日本農業新聞などが印刷されて、朝日新聞を印刷している工場の中では全国最大の規模である。生産設備は 輪転機をはじめとし信頼の高い新鋭設備が導入されている。
工程の流れは、本社からのデータでCTPという製版装置でアルミニウム板にレーザー光線を照射して焼き付けし、輪転機に取り付ける刷版を作る→輪転機に刷版を自動的に取り付ける→自動倉庫に保管されているロール紙(幅1.6m、長さ1.9km、重さ1.3T、直径1.6m、8ページで35,000部印刷可)を輪転機に自動供給→輪転機で印刷され、裁断・折り曲げされる→キャリアという装置で次の工程運ばれ→自動仕分け・梱包→トラック別の自動積み込み・発送という一連の流れ。輪転機は5ラインあり、1ラインあたり1時間で最高で16万部の速度で印刷ができるが、今回は10万部での速度の印刷を見学した。
今回、ロール状に印刷されたものを裁断して折り曲げて1部の新聞に高速で仕上げる自動工程に興味を持った。
今回は住吉区からの見学者19名と工場見学記念版の記念写真を撮る予定が、集合時間より遅れたため1名の記念写真となった。遅れた原因はJR東西線の京橋駅で乗車し、海老江駅で下車したが、この駅が地下で地上に上がったら方向が分からなくなり、道に迷ってしまったため。地上駅であれば方向を間違うことはないが、地下だと完全に方向音痴になってしまった。 今回、午前(我々は午後1時半の見学)に見学者が2万人を超えたとのことで、翌日の朝刊にも掲載された。

2015年10月8日木曜日

平山郁夫展

京阪百貨店(守口店)30周年の記念として、悠久のシルクロード「平山郁夫展」が開催(8日~18日)された。
この本展では、シルクロードの作品を中心に画伯の足跡をたどり、被爆画家として平和の祈りを込めて描いた本画や素描など約60点により、画業が回顧されていた。 
ここでの目玉は、横幅約3.6M、縦幅約2Mの「アフガニスタンの砂漠を行く・日」「アフガニスタンの砂漠を行く・月」(下の写真)で、見ごたえのある素晴らしい作品だった。
過去に尾道市瀬戸田町にある平山郁夫美術館、滋賀県守山の佐川美術館(常設)などで鑑賞したことがあったが、会場の関係もあってか展示点数は少なかったが、久しぶりに平山郁夫画伯の作品を楽しむことができた。

2015年10月3日土曜日

健康フォーラム

第16回健康フォーラム「未来医療への挑戦」の講座が大阪ガーデンパレス(新大阪)であり受講した。
第1部のテーマは、「生活習慣病と健康寿命」、「健診は健康管理の一里塚」「日々の食事と健康寿命」「アクティブライフで体力づくり」、第2部は特別講演「健康寿命を延ばす効果的な運動法」であった。概要は以下の通り。
1)健康長寿/ぴんぴんころり、年は取るものではなく年は重ねるものである。 物にLife end製品寿命があるように、人にも遺伝子という設計図に書かれた寿命がある。その寿命がくるまで健康寿命でありたいと、食事・生活・運動面での努力を続けることが重要である。
2)人間は、五官で入力して運動器官で出力する生存機械である。老いに伴う五官の劣化と運動器官の劣化、入力量の低下と出力量の低下はボケに直結する。入力量は目から87%、耳から7%、その他器官から6%であり、目は重要である。出力量は身体を動かし、積極的な社会参画が必要である。
3)筋肉量と健康寿命は比例する。有酸素運動と無酸素運動、ストレッチングを組み合わせたエクササイズが最適である。
4)健康寿命を延ばすためには、生活習慣病にならないことはもちろんであるが、なってしまえばそれ以上進行しないように努力することが重要である。その中で、食事をゆっくりとり一口30回は噛むことをすれば認知症防止、血糖値の低下、食べすぎの予防ができる。
5)健康寿命を延ばす効果的な運動としては、下肢筋力を鍛える、やバランス能力など体力をつけることが必要不可欠である。ここではノルディックウオーキングが体力をつけるのによいとの説明があった。 以上がまとめの概要であるが、第1部のタイトルで目新しいものを期待したが、一般的な内容だった。男性の平均の健康寿命は、71.11歳、我が健康寿命は3歳ほど延びている。が、今回の受講の機会に、より延ばすように日々の有酸素運動・ストレッチ体操、食事面、ボケ防止に努めようと、改めて誓った次第である。

「徹子の部屋」展

日本で初めての本格的なトーク番組として、1976年2月2日にスタートした「徹子の部屋」(テレビ朝日)が放送開始40年目に入り、司会の黒柳徹子さんがゲストをスタジオに招いて対談するというスタイルは、昭和・平成を通して40年間変わらず、その出演者は延べ10,000人を超えたとのこと。その記念として大阪高島屋にて本展が行われていた。(30日から12日まで)
その40年の歴史を振り返り、過去の写真や延べ10,000人のゲストの名前などがパネルで紹介、また「徹子の部屋」のスタジオの再現、名場面を集めた映像(第1回目の出演は故森繁久彌さん)の放映もされていた。それ以外にも黒柳さんの衣裳や番組のエピソード、舞台裏などの紹介もあった。 この番組を時々みているが、このようなスタイルで40年も続いているとは、すごいことと改めて思う。