4月末でNHKの朝ドラ(連続小説ドラマ)「あさが来た」も終わったが、このあさの主人公(広岡浅子)の主なゆかりの地を数回にわたって訪れてみた。
写真上は、肥後橋角にある大同生命大阪本社ビルで、ここに両替屋・加島屋の本家があった。ヴォーリズ設計による旧肥後橋本社ビルが建っていたが1993年からは一部の建築物を残した現在のビルになっている。そのビルの前に石碑が設置(左上)されている。
写真中は、左上:梅花女学校発祥の地で、ここで主任教師(アメリカ留学後校長に就任)成瀬仁蔵が教えていた。浅子と共に1901年日本女子大学校(現在日本女子大学)を創設する。右上:豪商・淀屋常安の手により、中之島は1619年に開発され、その豪商・淀屋の跡地がある。左下:日本基督教団大阪教会で1911年浅子が洗礼を受けた教会。1922年にヴォーリズ設計によるもの。右下:中津藩蔵屋敷で生まれた福沢諭吉生誕の地。
写真下の左上:蛸の松で諸国の蔵屋敷が立ち並び、その蔵屋敷前に自慢の黒松が植えられていた。特に広島藩主福島正則が植えたとされる黒松は、枝ぶりが蛸の泳ぐ姿に似ていることから人々に愛されたという。右上・右下:大阪商工会議所の初代会頭五代友厚の銅像、北浜の旧大阪証券取引所前の立像。この五代の人物と業績を知る人は、今日大阪でもごく少ない。五代こそは大阪の育ての親であり、忘れがたい大阪の恩人である。五代友厚は、1836年2月(天保6年12月)鹿児島に生まれ、東の渋沢栄一と並び称される五代であるが49才の若さで亡くなったことは、大阪にとってまことに不幸であった。遺言で大阪の土となり墓は阿倍野斉場にある。
左下:浅子の異母姉・春が嫁いだ両替商・天王寺屋の跡地。天王寺屋五兵衛と向かいに平野屋五兵衛の両替商が構えていたことで「天五・平五(あわせて)十兵横町」と呼ばえていた。今回、はじめて大阪の中之島、北浜界隈などをみて歩き、ちょっとした歴史を学ぶことができた。
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