2016年11月27日日曜日

佐渡練(佐渡総監督レッスン)

第34回「サントリー1万の第九」も今週(12月3日(土)リハーサル、4日(日)本番)に迫り、夏から始まったレッスンも最後の佐渡練(佐渡指揮者・総監督による合同レッスン)で終わりとなる。そのレッスンが、今年は京阪天満橋駅から近くのエル・シアター(府立労働センター)で、森ノ宮E・F・1・2クラスの約1000人が参加して行われたので参加した。約1時間35分による細かな歌い方指導もあり最後の仕上げとなった。
この「一万人の第九」に始めて出演したのは2000年の第18回からで、翌年2001年だけ他の合唱団の第九出演で出なかったのみで、その後は毎年出演して今回で16回目となる。第九の出演はトータルでは49回目で、50回まであと1回で達成するまでになった。長い~長い~第九の歴史があるが、また新たな歴史を刻むことになる。 さあ~もうすぐ本番だ。風邪などを引かないように注意し、今年の最後を飾ろう!
写真は第九レッスン(森ノ宮E・1・2レッスン)の有本正人講師のサイトから借用した。

2016年11月20日日曜日

京都「龍吟庵」

 「即宗院」の横にある東福寺塔頭のひとつで、年に1回紅葉シーズンに特別公開されている。ここ「龍吟庵」は「りょうぎんあん」と呼び、室町時代初期に建造された現存最古の方丈建築の単層入母屋造である。
東福寺第三世住持「大明国師」の住居跡、大明国師坐像(重要文化財)が方丈の背面の開山堂に安置されている。方丈の東西南の三方に枯山水の庭は、重森三玲により昭和39年につくられた。三方(東・西・南)は庭に囲まれているのが特色である。
方丈の前側の南の庭は「無の庭」で、置石がないシンプルな白砂だけの庭。(下の写真の右上)
西側の庭は「龍門の庭」で 龍吟庵の寺号に因んで、龍が海から顔を出して黒雲に乗って昇天する姿を石組みによって表現している庭。(下の写真の左下)
東側の庭は「不離の庭」で大明国師が幼少の頃、熱病にかかって山中に捨てられた時、二頭の犬が国師の身を狼の襲撃から守ったという故事を石組みで表している庭。。(下の写真の右下)
という名園らしいが説明を聞いて、何となく成る程と納得したものだった。

京都「即宗院」

秋の紅葉シーズンに特別公開されている東福寺境内にある「即宗院」を訪れた。
東福寺は紅葉シーズンで、また日曜日でもありすごい観光客で賑わっていた。
ここ「即宗院」は池泉回遊式庭園「月輪殿」と西郷隆盛による東征戦亡之碑などを見て回った。庭園には赤や黄色の千両が沢山植えられて、実が庭に色を添えていた。
この即宗院は東福寺塔頭のひとつで、1387年(嘉慶元年)の創建、東福寺龍吟庵の東側に位置する。島津家の菩提寺で、法然上人および西郷隆盛のゆかりの寺として知られている。西郷隆盛と月照上人が密談したとされる茶室「採薪亭」跡や、西郷隆盛による東征戦亡之碑などがある。室町時代に藤原兼実公が造営した池泉回遊式庭園「月輪殿」跡がある。

2016年11月17日木曜日

奈良市写真美術館

「志賀直哉」の旧居からすぐ近くにある入江泰吉記念「奈良市写真美術館」で、春日大社第60次式造替記念として、3日から故入江泰吉氏の「春日大社とおん祭」展と同時開催として「春日山原始林」展があり鑑賞した。入江泰吉氏が長年撮り続けてきた春日大社の風景と伝統行事「春日若宮おん祭」を中心にした写真が展示されて、1950年頃の「おん祭の露店」の風景、「春日大社の参道秋陽」など春日大社の四季写真を楽しんだ。
入江泰吉記念「奈良市写真美術館」は、写真家・入江泰吉の全作品を収蔵・保存するとともに、随時テーマを替えて企画展を開催し入江作品を公開している。
故入江泰吉氏(1905ー1992) 昭和時代の写真家。明治38年(1905)11月5日に奈良に生まれ。昭和6年大阪で写真店を開業。昭和16年日本写真美術展に「文楽」を出品し文部大臣賞。昭和20年故郷奈良にもどり大和路の風景、仏像などを撮影し、平明で抒情的な作品で人気写真家となる。「古色大和路」「万葉大和路」「花大和」で51年菊池寛賞受賞。平成4年1月16日死去(86歳)。 県庁東側に入江泰吉旧居があり、公開されている。

「志賀直哉」の旧居

白樺派の文豪「志賀直哉」が昭和4年から9年間住んだという旧居(敷地435坪、建物134坪)が「春日大社」の南側上高畑町にあり訪れてみた。現在は奈良文化女子大学のセミナーハウスになっているが、有料で中を見ることができる。
大正14年(1925年)、 京都・ 山科から奈良・幸町に居を移した志賀直哉は幸町の借家で4年間を過ごした後、この上高畑町に宅地を求めた。昭和3年に志賀直哉自身が設計したとされるこの旧居は和風、洋風、中国風の様式を取り入れ当時としては、大変進歩的で合理的なものであったようで、数奇屋作りの書斎はわざわざ京都から名大工を呼んで作らせたとのこと。ほとんどが当時のままで、あの「暗夜行路」はここで完成した。ここは静かで、しかも窓から若草山が借景になった庭が見え、最高の環境で執筆活動していたようだ。有名な高畑サロンと言われるところは、文化人や画家などの憩いの場となっていたようで、ここを訪れた人の名前、武者小路実篤、谷崎潤一郎、・・・と知った名前が書かれた額や写真も展示されていた。当時のここの情景が浮かぶようだった。
随筆「奈良」(志賀直哉全集7巻)の最後に「兎に角、奈良は美しい所だ。自然が美しく、残っている建築も美しい。そして二つが互いに溶けあってゐる点は他に比を見ないと云って差支えない。今の奈良は昔の都の一部分に過ぎないが、名畫の殘欠が美しいやうに美しい。御蓋山の紅葉は霜の降りやうで毎年同じやうには行かないが、よく紅葉した年は非常に美しい。5月の藤。それから夏の雨後春日山の樹々の間から湧く雲。これらはいつ迄も奈良を憶う種となるだろう」と書いているように志賀直哉が奈良が好きだったことがよくわかる気がした。

「春日大社」特別参拝

今年11月6日に第60次式造替が行われ、御本殿やそれ以外の社殿も美しく蘇った「春日大社」の正遷宮を奉祝し、12日~17日の午後から御本殿の特別参拝が行われているので出かけてみた。多くの特別参拝者や一般参拝者であった。
南門をはじめ本殿と、その周りも大変綺麗に修復され、一千基の釣燈籠が架けられた回廊を歩き、厳かな気持ちで御本殿にお参りした。が、本殿の第一、第二、第三、第四殿内には入れなかったのが少し残念だった。
ここ春日大社は、今からおよそ1300年前、奈良に都ができた頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く鹿島神宮から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様を神山御蓋山(ミカサヤマ)山頂浮雲峰(ウキグモノミネ)に迎えたことから始まる。その後香取神宮から経津主命様、また枚岡神社から天児屋根命様・比売神様の尊い神々様を招いた。祭神はこの4つの神様である。
御創建以来当社は、千古の森の中に朱の柱、白い壁、そして自然の檜皮屋根の本殿・社殿が往古と変わらぬ壮麗で瑞々しく鎮まっていた。これを20年毎に斎行される式年造替という制度により、社殿の御修繕、御調度の新調、祭儀の厳修により日本人の命が連綿と受け継がれてきた。これにより、清々しくも尊厳ある気が境内に満ち、神様の広大無辺なるお力や有り難さがしみじみと感じられる名社として今日に至っている。

2016年11月15日火曜日

京都「酢屋」坂本龍馬の命日

11月15日は坂本龍馬の命日で、最後の隠れ宿であった「酢屋」(河原町三条下る)で追悼祭と龍馬追悼展が行われていた。「酢屋」の前には祭壇が設けられお供え物やお花で飾られて追悼式が行われたようである。2時頃に行ったので、すでに終わっていた。
2階の龍馬ギャラリーの追悼展では、龍馬愛用の煙草盆、きょうそく、海援隊日記、乙女姉宛ての最後の手紙などが展示され、当時のままの部屋の様子などを見て当時を偲ぶことが出来た。
今から丁度149年前の1867年11月15日、龍馬と慎太郎は醤油商近江屋の母屋2階にて密談中であった。午後9時過ぎ、何者かが龍馬に面会を求めてやってきた。そして、彼らは取り次ぎにでた下僕の山田藤吉(滋賀県三井寺町の出身で龍馬の世話役・用心棒)のあとから近江屋に潜入、龍馬のいる2階に向かった。二人の刺客は2階に上がるとまず藤吉を斬殺。龍馬らの座敷に乱入し、いきなり龍馬、中岡に斬りかかった。龍馬は額を真横に斬られ、ほとんど即死。中岡は数十箇所に傷を受け、2日後に絶命した。 龍馬と慎太郎、藤吉は17日に近江屋で葬儀が行われ、東山霊山護国神社横の墓地に埋葬された。
この「酢屋」は享保6年より現在まで続く材木商。今年でちょうど開業から290年。 幕末当時、六代目酢屋嘉兵衛は材木業を営む傍ら、角倉家より高瀬川の木材独占輸送権を得て、運送業をも掌握していた。家の前は高瀬川の船入りで、各藩の折衝や伏見そして大坂との連絡の地に格好の地であったため、坂本龍馬は1867年6月初旬から「酢屋」を海援隊京都本部とし、自らも身を寄せた。 酢屋嘉兵衛も龍馬の活動に大変理解を示し、命懸けでその活動の援助に力を注いだという。さてその坂本龍馬、酢屋では「才谷さん」と呼ばれ、二階の表西側の部屋(写真の左の部屋)に住み込んでいた。 今でこそ酢屋の前は飲食街が立ち並んでいるのだが、当時は高瀬川の舟入になっており、龍馬が2階の格子から向いの舟入にむけて銃の試し撃ちをしていたともいわれている。24日にはこの酢屋の2階において朝6時から、出格子から差し込む明かりを頼りに畳に紙を置いて長さ5mにも及ぶ手紙を高知の乙女姉に宛てて書き、酢屋に投宿している旨などを伝えている。(これが乙女宛ての最後の手紙となった。) 龍馬暗殺があった近江屋にもこの酢屋から海援隊隊士が駆け付け情報収集したのであろう、暗殺者が3人であり龍馬がほぼ即死であったこと、16日には下男藤吉が絶命、翌17日には陸援隊隊長中岡慎太郎絶命、その後神式で葬儀が執り行われ霊山護国寺に埋葬されたことなどが海援隊日記に克明に書き込まれている。

2016年11月12日土曜日

「工学部学友会」第三回総会

湖風会「工学部学友会」第三回総会が、湖風会設立10周年記念式典日の11月12日(土)午前11時から滋賀県立大学A3棟301講義室にて、来賓の滋賀県立大学の大田学長、工学部山根部長、「湖風会 」岡田会長、「公益財団法人京都産業21」小林専務理事と教職会員(8名)、「湖風会」支部長(2名)、機械・紡織科及び化学・染色科卒の会員(71名)、県立大工学部卒の会員(10名)、現役の工学部学生(7名)を合わせて102名(実績)の出席のもと盛大に開催された。総会では、まず「工学部学友会」会長の挨拶・ご来賓の紹介と活動報告、山根工学部長の挨拶と工学部概要説明、大田学長及び岡田会長のご祝辞があった。
最後に出席者全員で記念写真の撮影を行い無事に終了した。前回と同様に工学部棟「研究室見学ツアー」が、総会の前の午前10時から希望者(約50名)を対象に機械システム工学科・電子システム工学科コース及び材料科学科コースの2コースに分かれて行われた。
また、湖風会設立10周年記念式典は、まず午後1時からA2棟202講義室にて出席者186名のもと、記念講演が国立研究開発法人海洋研究開発機構 海底資源研究開発センター長の木川栄一氏からテーマ「日本近海海底資源:研究の最先端と開発の現状」で行われ、記念式典では岡田会長の挨拶、大田学長のご祝辞、シンボルマークの最優秀賞の発表と賞状授与が行われた。続いて午後3時からは祝賀会がカフェテリアにて102名参加のもと行われ、これらすべてに出席した。また、この日は快晴に恵まれ校内では湖風祭も行われ、地域の人たちも多く来られて大いに賑わっていた。

2016年11月7日月曜日

キンシ正宗「堀野記念館」

BS4で毎週日曜日21時から放送されている船越英一郎さんの「京都を極める」(京都の有名神社仏閣、食事処などを紹介する番組)をみているが、今回、キンシ正宗の京仕込み発祥の地、旧堀野本宅の「堀野記念館」が紹介されたので訪問してみた。
その歴史は古く天明元年(1781年)、若狭出身の初代松屋久兵衛がこの地に造り酒屋を創業したことに始まる。 明治13年(1880年)に酒造拠点は伏見に移されたが、屋敷や酒造道具類は当時の様子を伝える文化資産として、今に受け継がれている。この堀野記念館の名はかつて堀野家の本宅であったことに由来している。間口約26m、奥行約30m、広い敷地の南側に位置するのが、切妻造段違桟瓦葺の主屋。切子格子やむしこ窓など、町家らしい造りを観ることができる。記念館の右隣(北側)にある町家麦酒の旨さの源泉は、堀野記念館中庭からコンコンと湧き出る桃の井の名水(下の写真の左下)で造られている。
 キンシ正宗は明治13年(1880年)までは、この桃の井の名水で作られていて、多くの酒蔵が軒を並べていた。が、その後は伏見に移り、現在はキンシ正宗の本社蔵内にある常磐井の水(日本の名水百選にも選ばれた御香宮に湧きでる御香水と同じ水脈)で、 この「自然の恵み」を「命の水」としてキンシ正宗の酒は造られいる。 今回、入館料300円で約200年の町家らしい造りの本宅・庭園(下の写真の上の左右)や酒造道具類の当時の様子を伝える品々などを見物した。 また、桃の井の名水も飲んでみたが、まろやかな感じの水だった。最後に日本酒と地ビール(下の写真の右下)を試飲したが、あまりお酒やビールの味がわからないがなかなかの味だった。

慈舟山「瑞泉寺」拝観

前関白豊臣秀次公一族の菩提寺の京都三条大橋西畔にある慈舟山「瑞泉寺」を訪れて拝観した。ここも秋期京都非公開文化財特別公開の一箇所で、最終日でもあり沢山の拝観者であった。
 ここ「瑞泉寺」は江戸時代のはじめまで、広い鴨川の河原の中州だった場所 。この場所で、今から421年前、悲しい事件が起こった。瑞泉寺はそのことを伝えをとどめるために建てられたお寺である。それは文祿4年(1595年)8月2日の昼下がり、 時の関白豊臣秀次公の一族の公開処刑が、ここ三条河原でおこなわれた。秀次公は太閤秀吉公の甥であるが、実子に恵まれなかった秀吉公に請われて養子となり、 二代目関白太政大臣を引き継いで、豊臣家の次世代をまかされた人。 幼少の頃から数々の戦で武功をあげ、また戦乱の世で散逸した古典の収集にも力を注いだ人でもあった。 関白を譲られる前は近江八幡の領主として善政を敷き、領民に慕われてもいた。そんな秀次公が悪逆の汚名と、謀反の罪を着せられ、切腹させられた。その理由には、一つは秀吉公の愛妾淀の君に秀頼が生まれ、 実子を盲愛する秀吉公からうとまれた、との説。また石田三成らの奸計によるものとする説、また秀吉のすすめる朝鮮征伐に秀次公が異を唱えたからとする説。そのいずれの要因も絡み合って起こった悲劇だった。秀次公は文祿4年7月15日 、秀吉公の命により高野山青厳寺において切腹。 御首のみ京の三条河原に移され、その前に秀次公の一族が引き出されて、 次々と処刑されていった。秀次公の一族すなわち4人の若君と1人の姫君、そして側室として仕えた若く美しい女性たち34人の合計39人。 三条大橋から多くの人が見守る中、 一人ずつ処刑されては大きく掘られた穴に投げ込まれ埋められた。そしてそこに大きな塚が築かれ、 頂上には秀次公の御首を納めた「石びつ」が据えられた。それを三条大橋を渡る人々への見せしめとしたとのこと。その16年後、豪商角倉了以翁が「塚」が荒廃している様子をみて、浄土宗西山派の僧とともに荒廃した墓域を整理するとともに、一族の菩提を弔う寺をその場所に建立された。(以上が概略で、それ以外省略)
 いつも境内の豊臣秀次公一族の墓地や地蔵菩薩堂、本堂の参拝やその関連資料が展示されていてみられるが、この日は本堂内での参拝や展示室にて豊臣秀次公の切腹の絵図、一族の処刑絵図、遺骸が投げ込まれ埋められる絵図などや秀次公の掛け軸や使用していた品々(刀や槍など)をみることが出来た。改めて秀次公の切腹とその一族の処刑の惨さを考えさせられた。

2016年11月6日日曜日

「げんき~」Gの芸能ボランテイア

今回は老健施設「しらかばホール」(枚方市出屋敷)の入所者約30名を対象の芸能ボランティアで、今回も前回と同様、メンバーの参加が少なく4名で行った。
出し物は、相変わらずの歌体操(4曲)→新舞踊(2曲)→踊り「どじょうすくい」→「皿回し」→「南京玉すだれ」→踊り「おてもやん」→踊り「河内音頭」の約60分の演技ボランティアだった。
入所者の皆さんは元気そうな人たちばかりで、それなりに楽しいひと時を過ごしてもらった感じだった。 (*゚▽゚*) 次回は12月25日(日)午後1時半から同じく老健施設「ひらからヒルズ」の予定である。
上の写真は、はじめの挨拶の様子、下の写真の右上は歌体操、左上は皿回し、左下はどじょうすくい、右下は「河内音頭」を職員の人も入っての踊りの様子。

2016年11月2日水曜日

心斎橋界隈を散策

久しぶりに親友と地下鉄心斎橋駅北改札口で11時に待ち合わせ、御堂筋の西側界隈(アメリカ村など)をブラブラと散策しながら写真を撮った。
写真を撮るつもりで街中をブラブラとすると看板、ショーウインドー、レトロな建物、彫刻品などの被写体も多く、そこに少し人物を入れての撮影も出来て結構面白かった。
昼食は大丸前の日航ホテル地下2階にある「和食個室 禅園」で人気ランチの松花堂弁当「花鳥風月」を、雑談しながら楽しんだ。
その後、御堂筋を淀屋橋まで散策しながらよい被写体があれば写真を撮った。まだ黄色に染まっていないイチョウ並木も日光がよく当たる木は黄色に染まっていて綺麗だった。 イチョウの木が黄色に染まるのも、もうすぐだ。