2010年9月30日木曜日

「心肺蘇生法・AED講習会」へ

NALC「天の川クラブ」主催の「心肺蘇生法・AED講習会」がラポールひらかたで開催された。NALC「天の川クラブ」のホームページのトップページに掲載する活動写真を撮るために参加した。参加者は30名。
枚方・寝屋川消防署の人(3名)から心肺蘇生法、AEDの使い方を説明しながらの実演、そして参加者全員が実技体験をした。
心肺蘇生法については、もう6~7年前に講習を受けたが、忘れているところもあり、それなりに勉強になった。(倒れた人→肩などを叩いてどうしました?大丈夫ですかと聞く(反応がない場合)→周囲の人に119番通報とAEDを頼む→呼吸しているか鼻先に耳を近づけて確認する(呼吸していない場合)→①鼻をつまんで口から息を2回入れる→②乳頭と乳頭の間に左手を下に右手を重ねて約4~5cm程度(胸部約3分の1)へこむように30回(1分間に30回程度)繰り返す→①と②を救急車が来るまで繰り返す。)
AEDの操作は、簡単な使い方であったが勉強になった。 写真は舞台で実演する消防署の人達。

2010年9月28日火曜日

野菜づくり

秋野菜の大根を9月4日に種まきしたが、よく生育している。(写真の通り、24日後の状況) 今年もそれなりの大根がとれそうだ。  
同じ日にサラダ用の水菜も種まきしたが、虫に食われて葉がほとんどなくなり生育も悪い、殺虫剤を散布したが駄目かもしれない。時期的に少し遅いかもしれないないが、新たに種をまいた。今年の水菜はどうもうまくいかないかもしれない。
それ以外に日野菜も種まきしたが、それなりに生育している。
サツマイモを初めて収穫。収穫にはあと1カ月ほどあるが、どの程度とれるのか?楽しみである。あまり期待してもどうかと思うが・・・・・。

2010年9月25日土曜日

映画「十三人の刺客」鑑賞

本日、封切の映画「十三人の刺客」(監督:三池崇史氏)を観に行った。この映画は、先般「プリンセス・トヨトミ」の撮影を手掛けた楽映舎(東京にある映画を企画立案、制作する会社)が同じく手掛けた映画であり、またベネチア国際映画祭で話題を集めた作品でもあり興味があった。
あらすじは、弘化元年9月明石藩江戸家老の間宮図書が老中土井家(平幹二郎)の門前で割腹し果てた。間宮の死は藩主松平左兵衛斉韶(なりつぐ、稲垣吾郎)の暴君ぶりを訴えていた。斉韶は将軍家慶の弟君、この事件は時の幕閣を動揺させた。これに対し老中土井は、非常手段として御目付役島田新左衛門(主演:別所広司)に斉韶暗殺を命じた。大事決行をひかえ新左衛門は十一人の協力者を集めた。新左衛門の知友の倉氷左平太(松方弘樹)、三橋軍次郎、樋口源内、他十一人の強者達だ。暗殺計画は極秘裡に進められたが、この暗殺計画を事前にキャッチした人物がいた。それは鬼頭半兵衛(市村正親)で、明石藩側用人千石の身分を自分で掴んだ傑物である。不詳事発生以来1ヵ月余、明石藩が突如参勤交代の途についた。行列を追う刺客団は、中仙道で奇襲作戦を練ったが、鬼頭半兵衛の奇計にあい失敗に終った。新左衛門の計略は、斉韶が尾張を通る時、その尾張藩の通行を阻止すれば、勢力を削られた行列は新左衛門が襲撃の場所に選んだ「落合宿」に出る。「落合宿」は襲撃には絶好の要地だ。尾張藩通行を阻止する方法は、尾張藩木曽上松陣屋にかつて息子夫婦を斉韶に惨殺され、深い恨みを抱く牧野靭負がいる。倉永が早速松陣屋に飛び、他の刺客は「落合宿」へ急行した。郷士の倅木賀小弥太がこの計画に加わり、今はただ、時を待つだけだった。運命の朝、深いもやの中を「落合宿」に乗り込んだ斉韶公以下53騎は、先ず真新しい高塀にさえぎられた。混乱の中、退路の橋が大音響と共にくずれ落ちた。53騎は、半兵衛の意志とは逆に障害物にはばまれて、刺客の誘導に乗っていった。十三人と53騎の死闘は続いた。虚しい死体の群の中に新左衛門、半兵衛の死体もあった。最後、島田新六郎(新左衛門の甥、山田孝之)のみ生き残り、帰りを待つ女房が玄関で迎えた時の表情は、うれしさか悲しさかの複雑なものであった。しかし、島田新六郎の姿は映らずに終わった。最後の字幕に「弘化元年斉韶参勤交代の途中発病、帰城と同時に死去と届けられた。」と書かれていた。(「十三人の刺客」のサイトから引用)
後半の約50分に及ぶ十三人対300人の大軍団との戦いは、物凄い迫力とリアルさがあり、本当に見ごたえがあった。これらの戦いのシーンをどうして撮影したのであろうかと考えさせられることも多かったが、全体的にうまく撮影しているなぁ~と非常に感心した。 

2010年9月21日火曜日

明日香村へ

奈良橿原市城殿町の本薬師寺跡周辺に「ホテイアオイ定植農園」(面積1.4ha)がある。このホテイアオイは、米の生産調整の一環として休耕水田を利用して、この本薬師寺跡周辺で栽培されているもので、8月中旬から10月初旬にかけて見頃を迎える。その涼しげなすみれ色の花は、素朴な農村景観に艶やかな風情を醸し出し、本薬師寺跡や大和三山(特に畝傍山、香久山)の景観に溶け込んで、訪れる市民や観光客、カメラマン等に大変親しまれている。三連休も終わり平日であったがカメラマンや観光客が多く訪れていた。今回2回目。(上の写真)
その後、明日香村へ。18日(土)~20日(月・祝日)に行われた「彼岸祭り」も終わり、人出も少ないとの思いもあり、棚田の彼岸花と稲渕地区で毎年行われている案山子コンテスト(今年のテーマ:ふれあい)の案山子の写真を撮りに出かけた。しかし、それなりの人出だった。この案山子コンテストは、明日香のお米と農村風景を守ってきた「案山子」と稲渕棚田の景観を後世に残し伝えていくために、明日香で育った人と明日香を愛する人々が主体となって取り組み毎年行われている。下の写真が今年の優秀賞、彼岸花はまだつぼみの状態だった。
今年、気温が30度と高く彼岸花はほとんど咲いていなかった。気温が20度台にならないと咲かないらしく、7~10日程(9月末頃)後にならないと、あの真っ赤な彼岸花はみられないようだ。

2010年9月18日土曜日

岸和田だんじり祭へ

岸和田だんじり祭(18日~19日)の初日に見物をかねて写真を撮りに出かけた。
岸和田だんじり祭は、岸和田市北西部の岸和田地区で毎年9月に行われるだんじり祭。その高い知名度もあって日本を代表する祭の一つとなっている。岸和田市にはだんじりを所有する町会が82町あり、郷・荘・氏地・町村制の旧町村などをベースにした8つの地区にまとまって祭礼が行われる。そのうちの2地区35町が9月に、6地区47町が10月に祭礼を行う。両者とも2日間にわたって行われ、それぞれの氏神社へ参る「宮入り」を行い、五穀豊穣・無病息災などを祈願する。この岸和田の「だんじり祭」は、元禄16年(1703)時の岸和田藩主・岡部長康公が五穀豊穣を祈願して行った稲荷祭りが始まりだそうだ。町民たちは地車を曳きいれて藩主の面前でさまざまな芸事を演じて見せるのが、唯一の悦びであり、大いに人々の支持を得た、そのよき伝統がいまも続いている。
見所や醍醐味は速度に乗っただんじりを方向転換させる「やりまわし」で、曳行コースの曲がり角は大勢の観客であふれる。もとは関西の一地方の祭であったが、昭和の終わり頃から多くのメディアで紹介されるようになり、一気に全国区の祭となった。近年、だんじりを所有する町会がさらに増加しており、規模が拡大しつつある。(wikipediaから抜粋)
その後、岸和田城へ。天正13年(1585)年、豊臣秀吉は叔父の小出秀政を岸和田城主とし、秀政は城郭整備にかかり、天守閣もこの時に築かれた。豊臣氏滅亡後、松平(松井)氏三代を経て、寛永17(1640)年、摂津高槻から岡部宣勝が入城し、以後、明治維新まで岡部氏が13代にわたって岸和田藩5万3千石を治めた。この間、文政10(1827)年、落雷によって天守閣は焼失し、以後長らく再建されなかったが、昭和29年、鉄筋コンクリート造りで三層の天守閣が再建され、また昭和44年には城壁と櫓が再建された。(岸和田城のサイトから抜粋)
岸和田城の1階、2階には資料展示、3階(天守閣)は展望になっていて、岸和田市内を一望できたが、少し北側なのでだんじりの曳行をみることはできなかった。
このだんじり祭をみて、町内での地車の保守管理や幼児から大人まで総出のお祭りで、伝統を守るには大変だろうと思うと同時に、参加している人たちは生き生きとした表情で祭りを楽しんでいた。

2010年9月16日木曜日

「一万人の第九」練習スタート!

第28回「サントリー1万人の第九」(12月5日本番)の大阪3クラスの練習(経験者クラスで6回練習)がスタート。この第九に2000年に初めて参加して今回で10回目。
練習会場は京阪天満橋の府立労働会館エル・シアターホールで、ここ数年同じピアノ:三輪さん、合唱指導:橋本さんだった。橋本さんは声楽が専門でなく器楽が専門、1万人の第九がスタートしてから28回目の合唱指導とのこと。声楽の専門でないので、自らこのように歌うのだという見本などもないし、声楽の指導者と違って少し物足りない。
これから5回の練習と指揮者佐渡さんの特別レッスン、12月4日大阪城ホールに全員集合による総合リハーサル、そして5日が本番となる。まだまだ先がながい。
今年のゲストは平原綾香さんで、聞くところによると第九の第3楽章の曲で歌詞をつけて歌ったり、合唱団と一緒に歌う曲を検討中とか、非常に楽しみだ。
上の写真はエル・シアターホールでの練習風景

2010年9月14日火曜日

映画「悪人」を鑑賞

芥川賞作家・吉田修一氏の最高傑作「悪人」(朝日新聞夕刊に連載)が待望の映画化がされた。9月11日に一般公開され、第34回モントリオール世界映画祭で最優秀女優賞を受賞した深津絵里(37)が話題となり、どのような演技をみせる女優なのか大変興味があったので観に行った。
吉田氏自ら“代表作”と語る本作は、発売と同時に各メディアの絶賛と大きな話題をよび、第61回毎日出版文化賞、第34回大佛次郎賞をダブル受賞しベストセラーとなった。ひとつの殺人事件。殺した男と愛した女。引き裂かれた家族。さまざまな視点から事件の真相が明らかになるにつれ、読書はある疑問にたどりつく。「いったい誰が本当の“悪人”なのか」と。悪意にまみれたこの現代の中で、ひとは何にすがって生きれば良いのか。この究極のヒューマンドラマに胸を打たれた日本を代表する10人の映画監督が映画化を熱望し、20社以上に亘る映画化権争奪戦となった。そして本作を監督するのは『フラガール』で日本アカデミー賞を初め、各賞を総ナメにした李相日監督。人間の善悪を深くえぐる演出で豪華キャストの魅力を最大限引き出している。また原作者である吉田修一氏自身が、李監督と共に初めて手掛けた映画脚本は、重厚な原作の世界を映画的な魅力に昇華させることに成功した。音楽には、巨匠・久石譲が参加。数多くの宮崎駿作品、北野武作品を手がけ、『おくりびと』の大ヒットも記憶に新しい世界的な作曲家による、奥深く切ない音楽が映画にさらなる深い感動を加味する。『悪人』に呼び寄せられた至高の才能たちが、映画史に残る感動のヒューマンドラマを誕生させた。(公式サイトより引用)
あらすじは、土木作業員の清水祐一(妻夫木聡)は、長崎の外れのさびれた漁村で生まれ育ち、恋人も友人もなく、祖父母の面倒をみながら暮らしていた。車だけが趣味で、何が楽しくて生きているのかわからない青年。佐賀の紳士服量販店に勤める馬込光代(深津絵里)は、妹と2人で暮らすアパートと職場の往復だけの退屈な毎日を送っていた。「本気で誰かに出会いたかった・・・」孤独な魂を抱えた2人は偶然出会い、刹那的な愛にその身を焦がす。しかし、祐一はたったひとつ光代に話していない秘密があった。彼は連日ニュースを賑わせていた殺人事件の犯人だった。「もっと早く出会っていれば良かった…」、そんな中で祐一の自首を止めたのは光代だった。殺人犯との許されぬ愛・・・。生まれて初めて人を愛する喜びに満たされる光代は、祐一と共に絶望的な逃避行へと向かう。やがて地の果てとも思える灯台に逃げ込んだ2人は幸せなひとときを迎えるが、長くは無かった。逃げ回り追い詰められていく二人。捕まる直前、清水は光代の首に殺した佳乃の時と同じく手をかける。連行された清水は光代を脅迫して連れ回したと、光代を共犯者にしないようにうその告白。世論も手伝い光代は佳乃と同じく清水の被害者とされる。光代自身も次第に清水を信じられなくなっていく・・・。「誰が本当の悪人だったのか?」光代の疑問がとけないまま幕を閉じるのだった。
地方の閉そく感や人と人のつながりが希薄になった現代社会を鋭く反映した秀作であり、見応えがあった。また、 祐一(妻夫木)と光江(深津)の演技は勿論、脇を固める俳優陣もかなりのものだった。特に光江(深津絵里)の演技はさすがによいし、最優秀女優賞を受賞するだけのものがあると思った。

2010年9月11日土曜日

ハーモニカコンサートへ

「くらわんかカルテット」(旧・河内口琴隊)の結成10周年記念のコンサートが、メセナひらかたで開催され、聴きに行った。
この「くらわんかカルテット」は男性4名のグループで、枚方市を中心に自治会・同窓会・老人会・福祉施設などへのハーモニカ演奏によるボランティア活動を年20回程度されいる。
「くらわんかカルテット」の略歴は、2000年6月に「河内口琴隊」を結成。2000年10月に関西ハーモニカ演奏会でデビューし、毎年6・10月のこの演奏会に出場。2004年11月に第1回単独コンサート開催し、それ以降ほぼ毎年開催。2009年4月に全国ハーモニカ演歌コンサートを企画・運営・出場。2009年7月に「河内口琴隊」を解散し、同じメンバーで「くらわんかカルテット」を結成。今回、10周年を記念して第5回単独コンサート開催。
今回オープニングとして、演歌「河内おとこ節」のハーモニカ演奏で、舞台下で8名の有志による踊りも入って、華やかに始まった。(写真)前半は、ハーモニカ演奏曲が9曲と「八幡のかぐや姫」によるオカリナ演奏(4曲)。後半は、「小雨降る径」から演歌「風雪流れ旅」までの7曲と村上博昭氏(関西ハーモニカ連盟副理事・事務局長、公認指導員・師範で11教室・200名指導中)による特別演奏(2曲)があった。
10周年記念にふさわしい、盛大な演奏会で、演歌・歌謡曲などのハーモニカの音色を楽しむことができたし、友情出演のオカリナ演奏もよかった。また、村上氏のハーモニカ演奏もさすがによかった。

2010年9月10日金曜日

京阪特急60周年のヘッドマーク

昭和25年9月1日、天満橋~三条間に特急電車の運転を開始して、9月1日で60周年を迎えた。昭和27年から、現在も使用しているハトマークの掲出を開始、その後もテレビカーや2階建て車両(ダブルデッカー車)など時代に応じたサービスを提供し、京阪電車のシンボルとして愛顧されてきた。
今回、この京阪特急の運転開始60周年を記念して、そのシンボルである8000系全編成車両に「記念ヘッドマーク」を掲出し運転がされている。 掲出期間は今月1日から30日まで。
そのため、その特急電車を撮るために出かけた。撮影をするポイントは、数か所しかないが、今回は八幡駅と淀駅の中間点、木川南の踏切(宇治川南踏切)で撮影した。この写真も今月限りしか撮れないものだ。
また、京阪電車100周年を迎え、7000系編成車両に写真の下のヘッドマークも掲出して運転されている。(写真の中、下のヘッドマークの写真は淀屋橋駅で撮ったもの)

2010年9月7日火曜日

5回目(最終)のエキストラに参加!

東映京都撮影所で「プリンセス・トヨトミ」の撮影があり、5回目(最終)のエキストラとして参加。12時半に東映京都撮影所正門前に集合、男性30名(3~4名が60才台で、あとは若手)が参加。12名は若手の参加者が武将、残り18名は兵士として、衣装室で担当者より着替えさせてもらい、化粧部では担当者より頭巾をかぶせてもらった。(顔の化粧はなしだった) あと具足などをつけ、脇差し・刀をさし、槍を持っての兵士姿となり、映画村にある屋敷代官所前で武将、兵士が前進する後姿を撮影するものだった。そのため当然、顔が映らない、ちょっとつまらないエキストラだった。
今回は、もう終わっているからだろうか俳優の堤真一・岡田将生・綾瀬はるか氏などの姿はなかった。今回、よかったのは初めて東映京都撮影所に入れて撮影所の雰囲気を感じ取れたこと、初めて兵士姿をしたことなどであったが、兵士姿の写真が取れなかったことが残念。この日はTBS「水戸黄門」の撮影が行われていたので、時代劇に扮した女優・男優の姿がよく見られた。写真は東映京都撮影所の正門入口、突き当りの4階建ての1階に衣装・化粧部があった。 

2010年9月5日日曜日

「オカンの嫁入り」を観賞

4日に公開された「オカンの嫁入り」を観に行った。先日知人よりインターネットで「オカンの嫁入り」の予告映画を観ていると京阪牧野駅が映っているという情報をメールで貰った。早速、公式のサイトやブログなどをみると、今年の1月30日、31日に京阪電車の牧野駅構内と周辺でロケが行われたとのことが分かった。スタッフが「人が少なくて静かな駅」として選んだのが、この牧野駅だったそうだが、撮影が進むにつれて、どこからか人が集まり、人・人・人・・・でホームから落ちそうになった人もいたとか。そのためロケを見るための入場券が過去の最高の売り上げになったとか。幸いケガはなかったようであるが、京阪への苦情も多かったとかで、大分混乱したようだ。
ず~っと母ひとり、子ひとりで生きてきた母娘を演じるのは、娘月子役の宮崎あおいと母親陽子役の大竹しのぶ。共に幅広い世代から支持され、日本映画界のトップを走る女優二人がついに本作で初共演。さらに話題作への出演が続く桐谷健太、今や日本映画界に欠かせない名優・國村隼ら、演技派が脇を固める。監督は、デビュー作『酒井家のしあわせ』が各方面で絶賛され、サンダンス・NHK国際映像作家賞/日本部門を受賞した、呉美保氏。(公式サイトから)
あらすじは、大阪で月子(宮崎あおい)と陽子(大竹しのぶ)は、母ひとり子ひとりで仲良く暮らしてきた親子。ある日の深夜、陽子が酔っ払って若い金髪の男・研二(桐谷健太)を連れて帰ってくる。何の説明もないまま玄関で眠りこける二人。月子は陽子を引きずり、居間のこたつに寝かせ、玄関で倒れている研二には毛布をかけてやる。翌朝、ケロッとした顔で陽子が言う。「おかあさん、この人と結婚することにしたから」・・・あまりに突然のことにとまどう月子は、とっさに家を飛び出し、隣の大家・サク(絵沢萌子)のもとへ向かった。月子が生まれる前に、陽子は夫・薫と死に別れており、ずっと「薫さんが、最初で最後の人」と言っていた。しかも、研二は25歳。態度もヘラヘラしていて、元板前だというが、今は働いていないらしい。納得がいかない、というよりも母の行動が理解できない月子は、サクの家に居座り続ける。「月ちゃんがいない家に同居はできない」と研二は庭の縁側の下で寝泊りする。そんな中、陽子に対しても、研二に対しても頑なに心を閉ざし続ける月子に、陽子の勤め先、村上医院の村上先生(國村隼)は、これまで誰にも話すことのなかった陽子との秘密を告白、月子を驚愕させる。それを聞いて渋々だが、陽子の結婚を了承することにした月子。ところがある朝、陽子と研二が二人で衣裳合わせに出かける間際、陽子が倒れてしまう。緊急搬送され、診断結果は軽い貧血。ホッとする月子であったが、医師から末期ガンの疑いを言われ受け止めがたい現実を突き付けられる。会社で転勤してきた男のストーカーにあい、外出恐怖症に陥っていた月子であったが、陽子を白無垢の衣裳合わせに連れて行くことを決意。自転車の荷台に陽子を乗せ(写真)牧野駅へ、しかし改札口前や電車乗り込みで恐怖心が起こるが、何とか乗り込みホットし喜ぶ母娘だった。由緒ある神社の静かな衣裳部屋で、白無垢に身を包んだ陽子が三つ指をついて月子の前に座る。涙をこらえ、ゆっくりと絞り出すように、これまで決して話すことのなかった本音を陽子が月子に話す。そして、めでたく研二と結婚式を挙げる。
日本のトップを走る女優二人(母役大竹しのぶ、娘役宮崎あおい)の演技は、味のある見ごたえのあるものだった。たまには、このような映画鑑賞も良いなぁ~と思う。

2010年9月4日土曜日

秋野菜づくり

4日付けの朝日新聞に男性が退職後に楽しみたい習い事の記事が掲載されていた。それによるとベストテンは①菜園、②料理、③楽器、④外国語、⑤登山・トレッキング、⑥写真、⑦そば打ち、⑧絵画・イラスト、⑨囲碁、⑩盆栽・園芸、11位以下は⑪釣り、⑫ゴルフ、⑬陶芸、⑭パソコン、⑮ピアノ、⑯うどんづくり、⑰書道、⑱筋肉トレーニング・ボディービル、⑲テニス、⑳カラオケ・歌唱・乗馬だそうだ。 ここで、小生の継続中のものは1位の①菜園、⑥写真、⑭パソコン、⑳歌唱(合唱)であり、過去に手掛けたがやめているのは②料理(約2年間料理教室に通ったが、自宅では作らないが田舎で一人の時はつくることが多い)、⑪海釣り、⑫ゴルフ、⑲テニス、⑳カラオケである。本当はもう1つ何か楽器をやりたいなぁ~と、ずう~と思っているが日が過ぎているのが現状。
1位だった菜園は、今年で早や10年になった。4日には昨年と同様、秋野菜の大根(1袋)と水菜(1/3袋分)の種まきと秋ジャガイモ1.2kgを植えた。あとは日野菜の種まきなどが残っている。
昨年は今までにない太い大根が沢山収穫出来て満足したが、今年は残暑が厳しく気温の高い日が続いているので、うまくいくだろか? と少し心配だ。
写真は大根の種まき後の畑。

2010年9月2日木曜日

「大阪くらしの今昔館」へ

天六にある住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」に出かけた。京阪の北浜駅から徒歩にて日本一長い天神橋商店街(2.6km)を通って、途中「大阪天満宮」にも参拝しながら到着。(帰りも北浜駅まで徒歩)
これは天神橋6丁目の角のビル8・9Fにあり、2001年4月にオープンしたもので、8Fには近代大阪の代表的な住まいと暮らしを模型や資料で再現されていた。9Fには1830年代の大坂の町を約1100平方メートルの空間に再現し、木戸門から一歩町の中へ入ってみると、大通りの両側には、風呂屋、本屋、建具屋、小間物屋、唐物屋、呉服屋、薬屋が並び、町会所の上にはひときわ高い火の見櫓もあり、路地を抜けると裏長屋の庶民の生活をかいま見ることもできた。江戸時代にタイムスリップした感じでおもしろかった。(下の写真)
以上が常設の概要であるが、計画的に特別企画も行われているようだ。今回は、大正から昭和初めの大阪時代から始まる都心と郊外を結ぶ鉄道(阪急・京阪・阪神・南海・近鉄)の発達と、それぞれの鉄道沿線の行楽地などの紹介を通して、暮らしの移りかわりを振り返っての展示だった。
上の写真は「大阪くらしの今昔館」の入口、下は江戸時代の大通りで、両脇にはいろいろな店屋が並んでいた。平日だったので人通りも少ない。