2015年12月15日火曜日

映画「海難1890」

今年、日本とトルコは交友125周年にあたり、12月5日から映画「海難1890」が公開され観に出かけた。
あらすじは、1889年(明治22年)から始まる。オスマン帝国(現トルコ共和国)の軍艦「エルトゥールル」号は、イスタンブールから日本へ向けて出港した。この軍艦には親善使節団を乗せて、明治天皇へ謁見(えっけん)するためだった。そして翌年の1890年6月には、明治天皇に親書を渡し、役目を終えると、9月に帰路についた。ところが、和歌山県串本(樫野崎)沖にさしかかったところで台風に遭遇し、座礁してしまう。その際、エルトゥールル号は水蒸気爆発を起こし、500名以上が死亡する。生き残った乗組員はわずか69名にすぎなかった。地元(紀伊大島樫野村)の村人たち(当時50軒程の村人)は、死者には棺桶を用意して彼らを丁重に弔った。生き残った乗組員には、非常に貧しい生活の中で備蓄していた貴重な食料や衣類なども与え、ケガ人には地元の医師らによって手厚い看病を行う。その後、ドイツの軍艦が迎えに来て帰還する。(これは、トルコの小学校の教科書にも載っている有名な話である。)
時は流れて1985年(昭和60年)。イラン・イラク戦争が起きて、時のイラク大統領サダム・フセインは、イラン上空の航空機に対して無差別攻撃を宣言する。この事態をうけ、各国は救援機をイランに派遣し、イランにいる自国民を脱出させるためである。ところが、日本政府だけはイランに救援機を飛ばすことは危険だと判断した。現地の救助要請に応えなかった。イランの首都テヘランには215人の日本人が残されていたにもかかわらずだ。絶望的な状況に立たされた日本大使館は、日本人救出をトルコに依頼した。そして、トルコ首相は快く承諾する。だが実は、そのときテヘランには、まだ500人近くのトルコ人が残っていた。空港では、大勢のトルコ人がカウンターに詰め寄った。救出に来てくれたと思った救援機が、日本人を乗せるというからだ。この騒動をみた日本人たちは搭乗を諦めた。そのとき、トルコ大使館員がトルコの人たちに語りかける。「私たちは陸路でも国に帰ることができる。けれど、今日本人を助けることができるのは、われわれトルコ人しかいないのです」。そのとき、空港に集まったトルコの人たちの脳裏には、かつて教科書で読んだ日本人の親切が浮かんだ……。そして無事に救援機にて脱出する。
というものだ。 8年前になるだろうか串本に旅したとき樫野崎灯台近くに「エルトゥールル号遭難記念碑」があり、その事件のことを知ったが、今回映画を通じて当時としては非常に貧しい中で、本当に真心をこめて尽くした人びとのことがよくわかった。日本人の多くは、この事件のことは忘れているかもしれないが、トルコの人びとは、今もしっかりと覚えているトルコ人の真心に、大変感動し涙した。また、当時の樫野村の人びともすごくえらいなぁ~と。

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