2014年5月27日火曜日
各被災地の視察
仙台駅に8時に集合し、8時30分にバス4台?で被災地に出発。今回、大川小学校⇒女川町⇒石巻市で、特に大被害でメデアに大きく取り上げられて放送されたところだ。まず、大川小学校へ、市教委の説明や地元住民の証言が掲載されていたので抜粋すると『石巻市釜谷地区の北上川河口から約4kmの川沿いに位置する大川小学校は、3月11日の東日本大震災で全校児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明となった。大川小は津波の際の市の避難場所に指定されているし、校庭に出るのがまずは最善と思われた。だが、この直後、現場にいた11人の教員たちが迷走を始める。このまま校庭に居続けるか、津波を想定して逃げるとすればどこに避難すれば良いのか、すぐに結論が出なかったのだ。校舎の西脇にある裏山に逃げるべきだとの声も出たが、「倒木や雪がある。余震も続いている」などと異論が出た。鉄筋コンクリート二階建てで高さが10メートルある大川小に屋上がなかったことも、選択肢を狭めた。やがて、子供たちは泣き叫ぶなどして動揺し始めた。恐怖のあまり吐く子もいた。とにかく校庭を出発し、北上川に架かる新北上大橋脇の堤防道路の方向に一列になって避難し始めたのは、3時25分ごろになってからだ。校庭からは約7メートルの高さがある。一部の親たちが続々と車で駆けつけて我が子を連れ出し、児童の数は約80人に減っていた。市の広報車が、津波の接近を伝えながら慌ただしく周辺を走る。と、次の瞬間、校舎西側にある北上川と東側にある海岸の二方向から、10メートルを超す山のような津波が、轟音を響かせながら迫ってきた。そして運命の3時37分、堤防道路付近にいた子供たちを一気に飲み込んだ。当時の大川小学校近くの避難に向かった新北上大橋付近の動画(YouTubeの動画借用)』 校長は不在(年休で午後不在)で無事だった。教頭・教員のほとんどがここには津波は来ないと思い込んでいたことが、大きな悲劇を生んでしまったようだ。校舎横の裏山にすぐ逃げる時間もあり十分可能だったが、そこまでの危険意識がなく、時間だけが過ぎていったようだ。改めてこの被災地に立つと何とも言えない恐ろしい津波と悲しみがこみあげた(´;ω;`) 冥福を祈った。 上の写真が校舎で、津波の高さは校舎の屋根までだったようだ。慰霊碑に手を合わせる会員の皆さん。
女川町は石巻市の東側にある港町。女川港を東に望む高台にある女川町立病院(下の写真)、その下に女川町の街並みがあったが谷状の町が津波でほぼ壊滅してしまった。この津波は高台の上に建つ病院の1階部分まで津波がきて、その高さは20mだったとのこと。この高台に登ってみるとガレキも片付き、街一面平地になりその中で鉄筋建てのビルが1棟横転していた。今後処理をどうするのか決まっていないそうだ。この市立病院の建設に当たって、市民から猛反対(高台へ通院に困る)があったが、今回この病院が避難場所となり多くの市民の命を救ったというバスガイドさんの話もあった。
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