2015年12月31日木曜日

有難うございました

今年も余すところ数時間となりましたが、いつもこのブログ「E(え)ちゃんの気ままな日記」を見ていただき、本当に有難うございます。 
今年は、このブログを2008年に開設して以来の過去最高の120件(平均3日に1件)の投稿をすることができました。 6~7月に体調を一時崩し投稿が減った時期もありましたが、それ以降投稿を増やして今日の投稿数になりました。 これも見ていただいている皆様の励ましがあったことが大きかったと改めて厚くお礼申し上げます。 有難うございました。
来年も引き続きよろしくお願い申し上げます。 


2015年12月28日月曜日

新聞・通信・テレビ・ニュース報道展

関西写真記者協会(加盟77社、カメラマン1044名)の第60回「新聞・通信・テレビ・ニュース報道展」が阪神百貨店梅田本店8階に開催されている。
この展示は、関西写真記者協会所属のカメラマンの1年間の集大成として、 今年中に放映された放送ニュース、紙面掲載された新聞写真から選考された作品を上映・展示し「この1年」を振り返る報道展である。
歳末に「この一年」を振り返る師走恒例の報道カメラマンによる写真、映像作品展として毎回好評を得て行われている。
 会場には被爆から70年がたった広島の様子やラグビー日本代表の五郎丸選手などの写真100点が展示されていた。この中には撮るに撮れないようなすばらしい写真も多々あり、さすがにプロだと感じ、この1年を振り返りなが見て回った。
また、テレビ・ニュース映画の部の映像作品では、「東海道の新幹線で焼身自殺か」など11点が上映されていた。

2015年12月25日金曜日

大阪企業ミュージアム

大阪商工会議所創立120周年記念事業として平成13年6月に開設の「大阪企業家ミュージアム」において特別展として、没後130年企画として「大阪の恩人・五代友厚」展が開催(~2月17日)されている。NHKの朝の連続小説(朝ドラ)の「あさが来た」の五代友厚(ディーン・フジオカ)の影響もあって多くの来館者で賑わっていた。
主展示エリアでは、大阪を舞台に活躍した起業家たちのチャレンジとイノベーションを明治以降3角時代ブロック(第一ブロック:近代産業都市大阪の誕生、第二ブロック:大衆社会の形成、第3ブロック:豊かな時代の形成)に分けて紹介されている。イノベーションが行われた産業分野別に展示されており、起業家たちが、社会・経済の発展にいかに重要な役割を果たしてきたか知ることが出来る。この展示は2回目であるが、大阪を舞台に活躍した起業家は高い志、勇気、英知を持って取り組んで成功したか、改めてよくわかった。
大阪の恩人と言われる五代友厚は、実業界に転じて以降、大阪を本拠として活躍。金銀分析所の設立によって巨富を得、1873年弘成館(買収鉱山の統括機関)、1876年朝陽館(製藍工場)を設立するなど、大阪の産業の近代化に貢献。また大阪商法会議所、大阪株式取引所、大阪堂島米商会所、商業講習所(大阪市立大学の前身)の設立、指導に尽力し、大阪財界の組織化にも貢献した。
大阪の経済的発展、近代産業の開拓・移植などに果たした指導的役割は高く評価されているという五代友厚について学ぶことができたし、凄い人だったことがよくわかった。現在、北浜の大阪取引所の前に「五代友厚公」の銅像が立っている。

2015年12月22日火曜日

ローム本社のイルミネーション

前から一度見に行きたいと思いながら行けなかったローム本社のイルミネーションを見に行った。
ローム本社が1995年から社会貢献の一環として、本社周辺でイルミネーションを実施して、今年で17回目の開催となるもの。
今回は、例年よりも電球数を増やし、ローム本社の敷地に面した佐井通り(通称春日通り)沿いの並木道を中心とした82本の木々に、約80万個の電球を点灯。入口の特徴的な丸みを帯びた2本ヤマモモ(高さ約10m)をシンボルツリーとして、佐井通りの歩道沿いにずらりと並んだメタセコイアの木々20本に枝の一本一本までイルミネーションが張り巡らされ、並木道がまばゆいばかりの輝きに満ち溢れていて、すばらしい眺めだった。
ここは、京都市内では最大級の規模となっていて、多くの市民で賑わっていた。


2015年12月19日土曜日

芸能ボランティア

今回は枚方市岡東町「岡集会所」で岡東町老人会の皆さんを対象に「げんき~」Gによる芸能ボランティアを行った。メンバー6名で行う予定が、急に都合が悪くなったとか風邪のために4名で行った。
出し物は、メンバーが減っても、いつもの出し物である歌体操(4曲)→新舞踊(2曲)→踊り「どじょうすくい」→「南京玉すだれ」→踊り「おてもやん」→全員で踊りの「河内音頭」(2曲)、「炭坑節」で約60分。
 最後の「河内音頭」(2曲)、「炭坑節」では、老人会の皆さんも加わって踊り、それなりに楽しいひと時を過ごしてもらった。 (*゚▽゚*)

2015年12月16日水曜日

映画「杉原千畝」

映画「杉原千畝」を「海難1890」に続いて見に行った。これは第2次世界大戦中、リトアニア領事代理として日本政府に背く形で多くのユダヤ難民にビザを発給し6000人もの人たちの命を救った杉原千畝(当時40歳)の波乱に満ちた半生を描いたものである。
諜報外交官として日本にさまざまな情報を送ってきた杉原を主演唐沢寿明さんが演じ、彼を支える妻に小雪さんがふんするほか、日本、ポーランドの実力派俳優が集結した作品である。
「命のビザ」発給の舞台のリトアニアに赴任されたのは、第二次世界大戦開戦を直前にひかえた1939年。当時の日本は、友好国であるはずのドイツが、共通の敵国であったソ連と「独ソ不可侵条約」を締結したことで、まさに大混乱に陥っていた。ヨーロッパ全土がナチスの脅威に飲み込まれる中、迫害され逃げ場を失うユダヤ人にとって、最後の望みの綱が「命のビザ」といわれる日本通過ビザであり、このビザを取得し第三国に逃げる以外に生き残る方法はなかった。彼らのの運命は文字通り杉原の双肩にかかっていた。杉原は急いで外務省本省にかけ合うが、日独伊三国同盟の締結を間近に控えた本国からは、むやみにドイツを刺激したくないとの国内の政治事情もあり、ビザ発給の許可はおりなかった。戦時下という緊迫した状況のもと、日本から遠く離れた異国の地で無断で大量のビザを発給すれば、自分はもちろんのこと家族の身も危険がおよぶ可能性もあった。しかしながら、命からがらリトアニアまでたどり着き、ビザの発給を懇願するユダヤ人たちを見捨てることもできず、ユダヤ人の人命救助、かたや外交官として本国の指示に従うべきとの判断の狭間に立たされ、迷い、悩んだ杉原が出した答えは、人間としてなすべきことを優先させるとの強い意志で、ついに杉原は独断で「命のビザ」発給を決断する。
杉原が発行した「命のビザ」を手に入れたユダヤ人難民たちは、シベリア鉄道でおよそ2週間かけて極東のウラジオストクへたどり着き、そのあと幾多の困難もあるが無事に日本にたどり着く。そしてアメリカなど第3国に逃れる。(関連サイトから抜粋)
映画の中で杉原千畝という人物像と、周囲を取り巻く人たちの物語が描かれており、6000人のビザを発給したとされ子孫を含めると杉原千畝に助けられた命は60000人にもなるという。いくら外交官とはいえ、日本政府の許可なしでビザを大量に発給するって、ものすごい決断と行動力だと思う。

2015年12月15日火曜日

映画「海難1890」

今年、日本とトルコは交友125周年にあたり、12月5日から映画「海難1890」が公開され観に出かけた。
あらすじは、1889年(明治22年)から始まる。オスマン帝国(現トルコ共和国)の軍艦「エルトゥールル」号は、イスタンブールから日本へ向けて出港した。この軍艦には親善使節団を乗せて、明治天皇へ謁見(えっけん)するためだった。そして翌年の1890年6月には、明治天皇に親書を渡し、役目を終えると、9月に帰路についた。ところが、和歌山県串本(樫野崎)沖にさしかかったところで台風に遭遇し、座礁してしまう。その際、エルトゥールル号は水蒸気爆発を起こし、500名以上が死亡する。生き残った乗組員はわずか69名にすぎなかった。地元(紀伊大島樫野村)の村人たち(当時50軒程の村人)は、死者には棺桶を用意して彼らを丁重に弔った。生き残った乗組員には、非常に貧しい生活の中で備蓄していた貴重な食料や衣類なども与え、ケガ人には地元の医師らによって手厚い看病を行う。その後、ドイツの軍艦が迎えに来て帰還する。(これは、トルコの小学校の教科書にも載っている有名な話である。)
時は流れて1985年(昭和60年)。イラン・イラク戦争が起きて、時のイラク大統領サダム・フセインは、イラン上空の航空機に対して無差別攻撃を宣言する。この事態をうけ、各国は救援機をイランに派遣し、イランにいる自国民を脱出させるためである。ところが、日本政府だけはイランに救援機を飛ばすことは危険だと判断した。現地の救助要請に応えなかった。イランの首都テヘランには215人の日本人が残されていたにもかかわらずだ。絶望的な状況に立たされた日本大使館は、日本人救出をトルコに依頼した。そして、トルコ首相は快く承諾する。だが実は、そのときテヘランには、まだ500人近くのトルコ人が残っていた。空港では、大勢のトルコ人がカウンターに詰め寄った。救出に来てくれたと思った救援機が、日本人を乗せるというからだ。この騒動をみた日本人たちは搭乗を諦めた。そのとき、トルコ大使館員がトルコの人たちに語りかける。「私たちは陸路でも国に帰ることができる。けれど、今日本人を助けることができるのは、われわれトルコ人しかいないのです」。そのとき、空港に集まったトルコの人たちの脳裏には、かつて教科書で読んだ日本人の親切が浮かんだ……。そして無事に救援機にて脱出する。
というものだ。 8年前になるだろうか串本に旅したとき樫野崎灯台近くに「エルトゥールル号遭難記念碑」があり、その事件のことを知ったが、今回映画を通じて当時としては非常に貧しい中で、本当に真心をこめて尽くした人びとのことがよくわかった。日本人の多くは、この事件のことは忘れているかもしれないが、トルコの人びとは、今もしっかりと覚えているトルコ人の真心に、大変感動し涙した。また、当時の樫野村の人びともすごくえらいなぁ~と。

2015年12月9日水曜日

「月亭」本町店で忘年会

4名(40数年前から職場関連の友人男性2名、女性2名)と2年ぶりに再会し忘年会を行った。 
越前市の武生から男性1名が来るので到着時間に合わせて11時40分に地下鉄御堂筋線の本町駅改札口に集合。
2名の男性は写真を撮ってフォトコンテストに出品して多く入選している腕前の持ち主(その入選作はこちら)、女性は写真をみたりするのが好きなので、まず富士フイルムフォトサロン(丸紅ビル1階)にて、「感じで写す美」(風景写真展)、「オーロラの大地」(オーロラの写真展)、「例会秀作展」(風景写真展)の写真をみた。中でもオーロラの写真は凄いものばかりで、一度行って撮れるものではなく数回、あるいは十数回と行っての撮影だろう。その費用もすごくかかっていると思う。展示の中でその写真の販売もしていた。
そのあと隣にある大阪国際ビルディング31階にある「月亭」にて忘年会。31階なので見晴らしがよくて、窓からは北浜方面が見渡せて気持ちよかった。夜景も良いだろうなぁ~。
料理はアサヒメイト会員割引価格の「黒毛和牛のステーキとふぐ三昧弁当」。 ワインで乾杯後、昼食をとりながら昔の知人の消息や話題、趣味の写真のこと、近況など話が尽きないひと時を楽しんだ。(´▽`)

2015年12月8日火曜日

放浪記

上本町の新歌舞伎座で公演の「放浪記」を最終日の前日(8日)に観劇した。今回もアサヒメイト(朝日友の会)の会員価格での観劇で座席は2階の1列右のコーナーだった。
この「放浪記」は、劇作家・菊田一夫により1961年に誕生し、主演の故森光子さんが林芙美子役を「よりよく演じたい」と生涯をかけて磨き上げ、半世紀にわたり感動を届け続けたものである。今回、女優仲間由紀恵さんに受け継がれて挑むもので、すでに東京・日比谷シアタークリエでの公演が終わり、今回大阪の新歌舞伎座、次に名古屋の中日劇場、福岡の博多座と続く。
サイトでの評判をみるといまいちで、意外にも仲間の美貌がその足かせとなっているという。それは実在した女流作家の林芙美子は、お世辞にも美しいとはいえない人として知られている。劇中でも、当時のカフェーで男性客相手に接客する場面で『ブス』と呼ばれたり、夫には浮気され続け、罵声を浴びせられるシーンも多いが、目鼻立ちのはっきりした美しい顔の仲間さんがどんなに地味な着物を着てもちょっと合わない。また、『これまで一度だって人に優しい言葉をかけてもらったことがない』と涙しても、客席から見ていると違和感がありすぎるのではないか、との声もあるらしい。が、それは顔だけの違和感の話であり、演技はそれなりに素晴らしいものだった。まぁ~綺麗な人のほうがよい、あまり綺麗でなかったらそう長くは続かないかもしれないから。これからも続いていくように願う。
今回の見ものは、故森光子さんがでんぐり返りで喜びを表現していた場面を、どう表現するのかという点に注目したが、側転という演出だった。それでもよかったし、場内の声援も多かった。この後、公演中に近鉄百貨店上本町店9階で「女優 森光子展」が開催されていたので見てきた。92歳で亡くなるまでの人生、特に「放浪記」2017回におよぶ写真や直筆の「放浪記」の台詞書き、衣装などが展示されていた。改めて故森光子さんの偉大な生涯を知ることができた。

2015年12月7日月曜日

狩矢警部シリーズ15

TBS系月曜ゴールデン「狩矢警部シリーズ第15弾」(京都タペストリー殺人事件)が7日午後9時から放送された。
このシリーズは、2年前(2013年12月2日と9日)に大津の三井寺内にある「総本山圓満院門跡」で撮影が行われエキストラとして出演した。
1日目(12月2日)は、8時~18時過ぎまで撮影が行われ今回、初めて羽織・袴を着たお金持ちの旦那役(今まで一般の見物客、通行人など)として3人が選ばれた。2人は背も高く恰幅よく羽織・袴を着ると本当に金持ちの旦那にみえるが、自分はどうも外見的にも金持ちの旦那には縁が遠いのに何故と疑問に思って人選した人(滋賀ロケの若い女性職員)に聞くと、和服が似合っているからとのこと、それを聞いて少し納得・・・。今回の映像をみるとなんとかそれらしい人に写っていたなぁ~と自己満足。
2日目(12月9日)は9時~17時過ぎまで、同じく「総本山圓満院門跡」にて撮影が行われた。 今回、和服が似合うと聞いて、もうすっかり忘れていた着物を着て行こうと、箪笥にしまい込んでいた着物を取り出し、30数年?ぶりに着て行った。(これは亡き母親が50年程前に縫ってくれた着物) そのお蔭か?山村紅葉さんの横に座って芸妓の舞を観るよいポジションで出演が出来た。非常にラッキーだった。このシーンでも他の俳優さんと同じくらいに写っていたので大変嬉しくなった。
また、船越英一郎・山村紅葉・雛形あきこ・青山倫子・原田夏希さんなど俳優を直に見ることもできたし、その演技もみて大変よかったなぁ~。 このドラマは非常によい記念作品となった。(´▽`)
尚、この狩矢警部シリーズには、第11・13・14に続いての出演だった。

大阪モーターショー

 第9回大阪モーターショーがインテックス大阪にて開催され最終日(7日)に行ってきたが、最終日でもあり多くの人で賑わっていた。
2年に一度開催される東京モーターショーの閉幕後、再現する大阪モーターショーで、今回は国産車関連9ブランド、輸入車関連23ブランド、二輪車関連5ブランドの合計37ブランド(前回31ブランド)が集結。近未来の夢を形にしたコンセプトカーからデビュー間近の新型車、人気の市販車まで、バイクを含めて国内外の注目モデルが展示されていた。
国産車のトヨタ、日産、ホンダ、三菱などは、エコカーのハイブリッド車、電気自動車や未来の取り組みの燃料電池自動車、自動運転化などを紹介していた。特に日産は、「自動運転」に力を入れてPRしていた。
特別企画として、別会場で未来を感じる大試乗会も行われていたが時間がなく出来なったのは少し残念だった。
今回、見所も多く、買って乗ってみたい車もあって楽しい見物だった。下の写真の赤い車が新発売の4代目のプリウス、乗り換えたいなぁ~。(´▽`)

2015年12月6日日曜日

サントリー1万人の第九

大阪師走の風物詩、第33回「サントリー1万人の第九」が行われた。
監督は佐渡裕さんで今回で17回目の総監督・指揮者。今回の出場は、初めての2000年12月(18回)から15回目。また「第九」は、大阪、札幌、東京(国技館)、広島、鳴門、香川などで出場して合計が47回目となった。目標50回の出場まであと3回、ここ1~2年で達成できるまでになった。
オープニングとしてLittle Glee Monster(女子中高のボーカルグループ)によるアカペラによる名曲の歌で開幕した。
第1部はゲストによる演奏。ゲストはアリス=沙良・オット(ピアノ)、石坂団十郎(チェロ)(二人共に両親が日本人とドイツ人)で、それぞれの独奏、また1万人のオーケストラと一緒に名曲が演奏された。
第2部には、栗山千明さんの「歓喜の歌」の朗読があり、ベートヴェン交響曲第九の演奏が始まった。ソリストは、ソプラノ:並河寿美、メゾソプラノ:林美智子、テノール:佐野成宏、バリトン:キュウ・ウォン・ハンの各氏、合唱団は北は北海道・東北仙台、南は沖縄那覇などから、年齢は小学1年生から96歳までの1万人で歌い上げた。
最後は「蛍の光」を全員で合唱し、また新たな感動のもとコンサートが終了した。\(^o^)/ 

これらは、MBSにて12月23日(水・祝日)13:55~14:52に「クラッシクは怖くない!」で放送される。
 

2015年12月2日水曜日

メタセコイア並木

関西で紅葉の人気が高い紅葉地は、1番目が京都の永観堂、2番目が滋賀県高島市のメタセコイア並木、3番目が東福寺とのこと。以前からこのメタセコイア並木を知ってはいたが、まだ一度も行っていなくて今回出かけてみた。
この並木は、延長2.4KMにわたってメタセコイアが約500本植えられ、マキノ高原へのアプローチ道として、高原らしい景観を形成している。昭和56年に学童農園「マキノ土に学ぶ里」整備事業の一環としてマキノ町果樹生産組合が植えたのが始まりで、組合関係者をはじめとする地域の人々の手により慈しまれ、育まれて、その後さらに県道も協調して植栽され、延長が伸ばされたことから、現在のこの雄大な姿となったものである。メタセコイアは、中国原産、スギ科メタセコイア属の落葉高木で、和名はアケボノスギ。最大樹高が115Mにも及ぶといわれるセコイアにその姿が似ていることから、メタ(変形した)セコイアと名づけられている。春の芽吹き・新緑、夏の深緑、秋の紅葉、冬の裸樹・雪花と四季折々に美しい円錐形のメタセコイアの並木とまっすぐに伸びる道路が造り出す対称形の整った景観は、遠景となる野坂山地の山々とも調和し、訪れる人々を魅了している。平成6年、読売新聞社の「新・日本の街路樹百景」に選定され、衆目を集めるに至った。(関連サイトから抜粋) 
初めてみて素晴らしい並木に感動した。まだ、完全には紅葉していないようだが、まっすぐに伸びる道路が造り出す対称形の整った景観はすごいなぁ~と。 冬景色もよいだろうが、車ではスノータイヤをつけないといけないのでちょっと難しいかなぁ~。春の芽吹き・新緑の頃にまた行ってみたい。