JR山陰本線の丹波口駅で下車して、島原「角屋」を拝観後、初めて島原界隈を散策してみた。
この島原は丹波口駅前にある中央卸売市場の南側一帯にある。よく江戸の吉原と比較される京の島原は、江戸時代に六条三筋町(現在の東本願寺の北側あたり)と呼ばれた遊郭が前身で、1641年に現在の場所に移されてきた。その移転騒動が島原の乱と同じようなことから島原と呼ばれるようになった、というのが現在もっとも定着している説とのこと。 一般には「島原遊郭」のほうがなじみがあるような気がするが、関係者は遊郭と呼ばれることを嫌うそうで、一応公称では「花街」(かがい)と言うことになっている。それは和歌や俳句、能楽、歌舞伎など文芸を研鑽する場所とする向きが強く、文化の中心としてあくまで「芸」を売っていた、という自負のようなものがあるからだそうである。しかし、最高位であった太夫(たゆう、遊宴のもてなしを公認された女性)を頂点に、当然芸妓にも上下に序列化された位階制があり娼妓もいたらしい。
島原はその歴史も古いが、衰退するのも早く、明治以降は祇園や七条新地など新興の遊里に客を奪われ、衰退の一途をたどり1977年(昭和52年)にはお茶屋組合も解散となった。その後は普通の住宅地となって、すっかり観光名所となってしまった島原大門、置屋「輪違屋」、島原西門、それと「角屋」が当時のまま残っている。
今回、この島原大門、置屋「輪違屋」、島原西門を中心に当時の様子を想像しながらみて回った。改めて島原のことなど、その歴史を知ることが出来た。
写真の上が島原大門、中が「輪違屋」(ここは内部の見学は不可で外観のみ)、島原西門の住吉神社・石碑。
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