「京の冬の旅」非公開文化特別公開(14ケ所)が1月7日から3月18日(土)まで行われていて、今回「島原角屋」と「壬生寺本堂・狂言堂」を拝観した。
門をくぐると新選組の刀傷が、また一階は台所及び居住部分がそのままの形で展示されていた。この一階の室内は、明るくするため多くのロウソクの燭台や灯油の行光が用いられ、油煙で天井や襖など室内が真っ黒で趣があった。今回、二階は非公開で見られなくて残念だった。この角屋は、揚屋として明治5年(1872)まで営業し、それ以降は茶屋業として昭和60年まで「松の間」にて宴会業務を行っていたとのこと。この「松の間」は、勤王派の久坂玄瑞や西郷隆盛、坂本龍馬などの密談にも使われたとのこと。また、新選組40数名の大宴会(1863年9月18日)が行われ、初代筆頭局長の芹澤鴨は泥酔になり、深夜屯所の八木邸で暗殺されるという歴史ある部屋でもある。そこから眺める「臥龍松の庭」(京都市指定名勝、下の写真の左下)は大変よかったヽ(;▽;)ノ
この角屋は、島原開設当初(1641年頃)から連綿と建物・家督を維持しつづけ、江戸期の饗宴・もてなしの文化の場である揚屋(あげや)建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定された。角屋は遊廓の店ではなく、今の料亭にあたる揚屋(あげや)という業種の店で、太夫や芸妓を抱えず、置屋から派遣してもらって、お客様に歌舞音曲の遊宴を楽しんでいくところ。揚屋は江戸時代、民間最大の宴会場で、遊宴のみならず、お茶会や句会なども行われ、文化サロンとしての役割も果たしていた。そのため、揚屋建築は、大座敷に面した広庭に必ず茶席を設け、庫裏と同規模の台所を備えていることを特徴としていた。江戸初期から中期までの揚屋は、間口が狭く、奥行きのある小規模の建物であったため、一階を台所および居住部分とし、二階を主たる座敷としていた。その二階へお客様を揚げることから「揚屋」と呼ぶようになったとのこと。
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