「真田庵」は真田昌幸・幸村父子が隠れ住んでいた屋敷跡に建つ寺院(善名称院、中の写真)や真田昌幸のお墓(善名所院の前にある)や資料館がある。
「真田古墳(真田の抜け穴伝説)」『真田のみち』から真田庵に続く道の途中にある真田古墳。 真田庵から東へ170mほどの所にあり、長い間真田幸村はこの抜け穴を使って大坂に出向いたとも言われていたそうだ。
2016年1月放送のNHK大河ドラマ「真田丸」を記念して、真田幸村が生涯で一番長く住んだと言われる九度山に「九度山・真田ミュージアム」が3月にオープン。九度山での幸村親子のことや生活が詳しく展示されていた。また、NHK「真田丸」の出演者のパネルやドラマで着用した衣装や小道具などが展示されていた。(下の写真)
「旧萱野家(大石順教尼の記念館)」は、若くして両腕を失いながらも、口に筆をとって優れた芸術作品を遺した大石順教尼の書画や愛用品が展示されていた。
真田昌幸と幸村が蟄居され、幸村が大坂夏の陣で戦死するまでのあらすじは以下の通り。 1600年の関ヶ原の戦いで、父・昌幸と幸村は西軍に、兄・信幸は東軍につくことになる。昌幸と幸村は上田城で東軍の徳川秀忠軍を食い止め、決戦場(関ヶ原)に遅参させるなど奮闘したものの、肝心の関ヶ原では、西軍が敗れてしまう。徳川家康は昌幸と幸村を死罪にするつもりであったが、兄・信幸と義父・本多忠勝の懇願もあり、特例として2人に高野山での謹慎を命じた。高野山があまりにも寒かったため、その年の冬に高野山の麓・九度山に移り住み、来るべき日に備えて兵術や水練の特訓を重ねる。また、刀の柄に巻く丈夫な真田紐を織り、家来に全国各地に売り歩かせて、諸国の動静を探ったり、資金集めをしたりしていたと言われている。豊臣と徳川の関係が悪化すると、豊臣の使者が「徳川を滅ぼすため、幸村殿の力を貸していただきたい。」と幸村のもとに尋ねてくる。幸村は感極まって、すぐさま快諾する。14年間住んだ九度山で、幸村は周辺の農民とも親しくなっており、幸村の心境を察した農民は幸村親子の出立に協力したようである。こうして、幸村は九度山の人々に温かく見送られながら、妻と子・大助とともに大坂城に入城する。1614年、大坂冬の陣が始まる時、幸村は精鋭部隊の証である鎧や武具を赤に統一し、「真田の赤備え」として、戦場で目立つ結束と武勇を示した。幸村は、大坂城南側に土作りの頑固な出丸「真田丸」を築いて徳川の大軍を迎え討ち、その武名を天下に知らしめた。翌年、大坂夏の陣でもわずかな兵で家康を狙い、戦列を変えて3度も本陣への突撃を繰り返すなど、家康に自害を覚悟させるほど追いつめたが、怪我をして休んでいるところを討ち取られてしまう。享年49歳であった。また、父・昌幸は1911年病死、享年65歳であった。(関連の資料から)
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