2016年6月2日木曜日

大和郡山城跡

写真展をみてから大和郡山城跡に立ち寄った。城跡には、梅林門、月見櫓、大手東隅櫓、多聞櫓が復元されていて、豊臣秀長築城当時の城の姿を思い浮かべることができる。現在、天守台は修復工事中(平成29年3月末まで)で入れなかったのが残念。時間の関係もあってすべて見物することができなかったので、梅・桜の名所でもあり再度訪れてみたい。
この郡山城は天正8年(1580)に筒井順慶が築城。順慶には今も語り継がれるエピソードとして、天正10年(1582)に本能寺の変が起こり、親しかった明智光秀より洞ヶ峠に出兵を促されるが、順慶は悩み、結局動かず日和見を決め込む。これを「洞ヶ峠をきめこむ」といい、旗色の良い方につくという悪い意味での言葉として残ってしまったこと。
豊臣秀吉の弟である豊臣秀長は、筒井家の後を引き継ぎ、天正13年(1585)に郡山城に入城。秀長は、優秀な実務派であり、秀吉の参謀役として数々の功績を立て、郡山に入ったときは、大和・和泉・紀伊の三国、百万石を領有していた。様々な大事業を成し遂げたものの、秀長は51歳で死去し、在任期間は6年余りという短い期間だった。豊臣秀長の没後は、水野勝成や松平忠明、本多正勝など領主が目まぐるしく変わり、江戸時代に郡山繁栄の立役者として活躍した柳沢吉里(貞享4年(1687)に柳沢吉保の長男として江戸上屋敷に生まれた。)は、宝永6年(1709)、吉保の後を継ぎ、享保9年(1724)、郡山に入城し郡山城主柳沢家初代となった。吉里は、郡山に養蚕を持ち込み奨励し、経済を振興させた。また、趣味で飼っていた金魚も運んだことから、この地での金魚養殖が始められるようになり、幕末の頃には下級藩士の副業として、明治維新後には職録を失った藩士や農家の副業としてさかんに行われるようになった。この営みには郡山藩最後の藩主、柳沢保申の惜しみない援助があったとされている。そして現在、大和郡山の金魚養殖は日本で最大の産地として発展を遂げた。(以上、関連サイトから抜粋)

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