1939年夏。日独伊軍事同盟締結の是非をめぐり、日本は大きく揺れていた。支那事変勃発から2年。大陸での戦争が泥沼化する中で、支那を支援する米英と対抗するためにも、新たな勢力と手を携える必要があった。強硬に三国同盟締結を主張する陸軍、国民の多くもまた強大なナチスの力に熱狂し、この軍事同盟に新たな希望を託していた。しかし、そのその「世論」に屈することなく異を唱える男たちがいた。それは海軍大臣、海軍次官の山本五十六、軍務局長で、その理由は日本がドイツと結べば、必ずアメリカとの戦争になる。10倍もの国力を持つアメリカとの戦いを何としても避けなければならなかったためだった。陸軍の脅しにも、「世論」の声にも屈することなく、命を張って反対を唱え続け、その甲斐もあってやがて三国同盟問題は一旦棚上げとなる。それを見届けた山本五十六は、1939年8月30日、生涯最後の職「連合艦隊司令長官」に就任。
しかし、時を同じくして世界情勢は急転し始める。ヒトラー率いるナチス国防軍がポーランドに進攻。それを機に欧州で第二次世界大戦が勃発した。快進撃を続けるドイツの力に幻惑され、日本国内では再び三国同盟締結を求める声が沸騰する。そして、その流れに対抗しきれず、海軍大臣及川古志郎はついに従来の方針を改め、同盟締結に賛成してしまう。1940年9月27日、日独伊三国軍事同盟締結。日一日と戦争に向かう時代の流れの中で、山本五十六は対米戦を回避を願う自らの信念と軍人としての責務の挟間で苦しみ続ける。
しかし、1941年の夏、米国との戦争はどうあっても不可避と悟ったとき、ついに一つの作戦を立案し、軍部の反対を押し切って強行した。それが12月8日、太平洋上の空母から飛び立った海軍350機の大攻撃隊による真珠湾のアメリカ太平洋艦隊の奇襲攻撃だった。それは、戦争に勝つためではなく、一刻も早く終わらせるための苦渋の作戦だった。その後は五十六が予測した通り、ミッドウィー海戦の参敗、ガダルカナル島奪回作戦など幾多の作戦にも失敗し、急速に転がり落ちていく・・・・。そのなかで、1943年4月18日、前線基地の視察に向かう途上、ブーゲンビル島の上空で搭乗機が撃墜され、59歳で戦死する。
この映画を観て、昭和初期からその戦争が始まる10数年は、当時もまた人々は不況で雇用不安と所得格差に苦しみ、総理大臣が次々と短期間で交代を繰り返していた。その中で軍部、マスコミ、知識人、国民すべてが混然一体になってアメリカとの戦争に突入していった。その歴史背景の中で、アメリカとの戦争に反対し続け日本を何としても守ろうとした「山本五十六」の生きざまを改めて知ることが出来た。すごい人だったなあ~と思う。
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