片埜神社、本殿前に並べられた献酒 |
2012年が明けた。自宅から徒歩約10分にある片埜神社へ初参拝。いつもと違って、正月だけは?行列ができるほど多くの参拝客で賑わっていた。この6年ほど前から毎年清酒1本を献酒しているが、ずらあ~と並んだ献酒をみると1本はあまり見当たらなくて2本がほとんどであった。(1本献酒の人の割合は約15%) 昨年は家族にとっても、自分にとっても大変よい年だった。今年も家族の健康とよい年になるようにと祈願した。
「片埜神社」(概要)は、第11代・垂仁天皇(在位:元年~)の御代、出雲の豪族・野見宿禰(土師・菅原氏の祖)が当麻蹴速との戦いに勝ち、河内一帯を賜わった。そして、当所、阪の地に出雲の神様「建速須佐之男大神」を奉鎮し、土師氏の鎮守としたのが始まりである。欽明天皇(539年~ 571)の御代に勅により「片野神社」と号した。鎌倉時代の末期、元弘建武の兵火に罹って社殿の悉くを焼失したが、室町中期になると、禁中から、吉田家によって荘厳な儀典が執り行われ社殿が再建された。しかしながら再び、天文・永禄年間に、三好・松永らの戦いによる兵火に見舞われること数回、社殿をはじめ旧記宝物の悉くが灰燼に帰したことは誠に惜しい事である。天正11年、豊臣秀吉公が大阪城築城の際、鬼門の方角に位置していた当社を大阪城鬼門鎮護の社と定めて尊崇、修築した。当社が大阪の鬼門除け、方除け社として世に知られる様になるのはこの時からである。さらに慶長7年には豊臣秀頼公が片桐且元を総奉行として復興、本社を大造営させたのが現在見る本殿、正門、築地塀である。
0 件のコメント:
コメントを投稿