2010年1月24日日曜日

京都霊山護国神社参拝

京都霊山護国神社に参拝して、霊山墓地にある「坂本龍馬・中岡慎太郎の墓」にお線香とロウソクの火を灯し参拝した。日曜日でありNHKの「龍馬伝」の影響もあり多くの参拝者があった。
暗殺された1867年11月15日みぞれの降る夜、かくれ屋の材木商酢屋から移った京都河原町の醤油商近江屋母屋の二階で龍馬と慎太郎は密談中だった。現場状況は午後9時過ぎ、何者かが龍馬に面会を求めてくる。そして彼らは取り次ぎにでた用心棒の山田藤吉のあとから近江屋に潜入、龍馬のいる二階に向かった。二人の刺客は二階に上がるとまず藤吉を斬殺。龍馬らの座敷に乱入し、いきなり龍馬、中岡に斬りかかった。龍馬は額を真横に斬られ、ほとんど即死。藤吉は翌日、中岡は数十箇所に傷を受け、事件直後に駆けつけた谷干城に襲撃の様子を語ると、2日後に絶命した。葬儀はこの近江屋で行われこの地に埋葬(3名)された。暗殺説には次の4つあるが、本当のことは謎のままであるらしい。
1)新撰組隊士説(暗殺現場には2つの有力な証拠の刀と下駄が残っていたため)
2)幕府見廻り隊士説
この説がもっとも有力で、その理由は次の通り。当時、京都には新撰組ほかに、もう一つ幕府に属する警察組織があった。京都見廻り組である。明治2年旧幕府軍のなかから龍馬暗殺の犯人と称する人物が現れた。元見回り組隊士今井信郎である。今井は明治政府の取り調べに対して、隊長佐々木唯三郎はじめ、見廻り組7人で襲撃したと供述。さらに明治44年、同じ元見回り組隊士渡辺篤も暗殺を告白。遺書の中に龍馬に斬りつけた様子を詳しく書き残している。この2人の証言は刺客の人数、襲撃のメンバーの名前など様々に食い違っているため疑問が残るが供述は具体的である。
3)薩摩藩説、黒幕は西郷隆盛か?大久保利通か??
4)龍馬が死んで利益を得る人物、後藤象二郎(土佐藩士)の説
中岡が残した証言によると犯人は「こなくそ」と言ったそうである。「こなくそ」とは四国の方言で「この野郎」という意味。同じ土佐藩士の仕業か? であるが、今暗殺説は幕府京都見廻り組が最も有力であるとのこと。
今日、坂本龍馬という人物を尊敬している人は多い。日本を大きく動かし、将来を見ることなくその生涯をとじたが、11月15日は惜しくも龍馬33歳の誕生日であった。写真は向かって左が龍馬、右が慎太郎のお墓で、龍馬の左には山田藤吉の墓もある。            

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