2016年11月15日火曜日

京都「酢屋」坂本龍馬の命日

11月15日は坂本龍馬の命日で、最後の隠れ宿であった「酢屋」(河原町三条下る)で追悼祭と龍馬追悼展が行われていた。「酢屋」の前には祭壇が設けられお供え物やお花で飾られて追悼式が行われたようである。2時頃に行ったので、すでに終わっていた。
2階の龍馬ギャラリーの追悼展では、龍馬愛用の煙草盆、きょうそく、海援隊日記、乙女姉宛ての最後の手紙などが展示され、当時のままの部屋の様子などを見て当時を偲ぶことが出来た。
今から丁度149年前の1867年11月15日、龍馬と慎太郎は醤油商近江屋の母屋2階にて密談中であった。午後9時過ぎ、何者かが龍馬に面会を求めてやってきた。そして、彼らは取り次ぎにでた下僕の山田藤吉(滋賀県三井寺町の出身で龍馬の世話役・用心棒)のあとから近江屋に潜入、龍馬のいる2階に向かった。二人の刺客は2階に上がるとまず藤吉を斬殺。龍馬らの座敷に乱入し、いきなり龍馬、中岡に斬りかかった。龍馬は額を真横に斬られ、ほとんど即死。中岡は数十箇所に傷を受け、2日後に絶命した。 龍馬と慎太郎、藤吉は17日に近江屋で葬儀が行われ、東山霊山護国神社横の墓地に埋葬された。
この「酢屋」は享保6年より現在まで続く材木商。今年でちょうど開業から290年。 幕末当時、六代目酢屋嘉兵衛は材木業を営む傍ら、角倉家より高瀬川の木材独占輸送権を得て、運送業をも掌握していた。家の前は高瀬川の船入りで、各藩の折衝や伏見そして大坂との連絡の地に格好の地であったため、坂本龍馬は1867年6月初旬から「酢屋」を海援隊京都本部とし、自らも身を寄せた。 酢屋嘉兵衛も龍馬の活動に大変理解を示し、命懸けでその活動の援助に力を注いだという。さてその坂本龍馬、酢屋では「才谷さん」と呼ばれ、二階の表西側の部屋(写真の左の部屋)に住み込んでいた。 今でこそ酢屋の前は飲食街が立ち並んでいるのだが、当時は高瀬川の舟入になっており、龍馬が2階の格子から向いの舟入にむけて銃の試し撃ちをしていたともいわれている。24日にはこの酢屋の2階において朝6時から、出格子から差し込む明かりを頼りに畳に紙を置いて長さ5mにも及ぶ手紙を高知の乙女姉に宛てて書き、酢屋に投宿している旨などを伝えている。(これが乙女宛ての最後の手紙となった。) 龍馬暗殺があった近江屋にもこの酢屋から海援隊隊士が駆け付け情報収集したのであろう、暗殺者が3人であり龍馬がほぼ即死であったこと、16日には下男藤吉が絶命、翌17日には陸援隊隊長中岡慎太郎絶命、その後神式で葬儀が執り行われ霊山護国寺に埋葬されたことなどが海援隊日記に克明に書き込まれている。

0 件のコメント: