2016年6月24日金曜日

大阪舞洲ゆり園


 大阪舞洲に新たなる名所「大阪舞洲ゆり園」が誕生して3年、今回パナソニック株主総会を途中退席して3年ぶりに訪れてみた。
この日は午後から雨との予報で、JR環状線西九条駅で下車する頃(12時頃)には本降りとなり行くべきかやめるべきかを悩んだ。 が、ここまで来たので、とりあえず行ってみようと「大阪舞洲ゆえ園」直行の市営バスに乗車して「舞洲スポーツアイランド」で下車、徒歩約5分でゆり園に到着した。この間も本降りの雨で、大阪湾に面しているので風も吹いて腰の下はびしょびしょに。途中一瞬風も雨も止む時間もあったが、それは一瞬ですぐ空が真っ黒となり風と雨が強くなり雨宿りをしないといけない状態もあった。そのため、仕方なく約30分程度園内をみて写真を撮って早く引き上げた。
ここは大阪湾を臨む最高のロケーションにゆり畑が作られ、250万輪のゆりが植えられているそうであるが、花がしぼんでいたり枯れかかっていたりもあって、写真を撮るにはもうすこし早く行かないといけないと反省。(*^_^*)

パナソニック株主総会

パナソニックの第109回定時株主総会が、大阪城ホールにて午前10時から行われ、2年ぶりに出席した。株主約2000名出席のもと報告事項として、1)第109期(平成27年4月~平成28年3月)の事業報告、2)会計監査人及び監査役会での連結計算書類の監査結果報告の2点と決議事項として、1)取締役17名選任、2)監査役2名選任、3)取締役の報酬額改定であったが拍手で承認された。その後、質疑応答があったが、途中で退席した。
今回、パナソニックの事業報告で、事業のセグメント別(アプライアンス・エコソリューション・AVCネットワークス・オートモーティブ&インダストリアルシステム・その他)の経過及び成果、家電・住宅・車載・BtoBソリューション領域による成長を目指す取り組みや対処すべき課題などがよくわかってよかった。

2016年6月20日月曜日

真田幸村終焉の地・安居神社

大坂夏の陣で真田幸村が戦死したといわれている安居神社境内を訪れた。
慶長20年(1615)5月7日、天王寺口の茶臼山に布陣した真田幸村は、毛利勝永らとともに徳川幕府軍と大激戦を繰り広げる。一時は幸村や勝永らの獅子奮迅の戦いぶりに幕府軍が大混乱になり徳川家康を窮地に追い込んだ。
しかし、大兵力の幕府軍相手にさすがの幸村も力尽き、安居神社境内の一本松の下で休息しているところを松平忠直隊の武将に討ち取られといわれている。享年49歳。神社境内には幸村の像と戦死跡の碑、そして幸村が休息していたといわれる二代目の一本松「さなだ松」がある。NHK大河ドラマ「真田丸」の影響で多くの参拝者や見物者で賑わっていた。
この神社は天王寺区逢坂1丁目に鎮座、少彦名神(すくなひこなのかみ)、菅原道真を祀る古社。昌泰4年(901)菅原道真が太宰府に左遷された際、河内の道明寺にいた伯母覚寿尼を訪ねて行く途中、ここへ立ち寄って安井(休憩)した。当時、道真に同情した村人がおこしを差し上げると、お礼にと菅原家の紋所「梅鉢」をもらった。これが、今でも大阪名物の「粟おこし」の商標の梅鉢となったといわれている。安居天神社は、その道真の死後の天慶5年(942)、道真の霊を祀るために村人たちが建てたもの。また、当地は四天王寺の僧侶がここで夏安居(げあんご:雨季の間に外出を控え寺院で修行に専念すること)することもあり、「安井」が「安居」になったという。境内には、道真も口にしたといわれる天王寺七名水のひとつ「かんしづめ(癇鎮め)の井」がある。

2016年6月19日日曜日

父・昌幸と幸村の九度山

真田昌幸と幸村が蟄居した九度山へ。南海電鉄「九度山駅」に降りて散策しながら「真田庵」「真田古墳」、今年3月にオープンした「九度山・真田ミュージアム」、「旧萱野家(大石順教尼の記念館)」などを訪れた。
「真田庵」は真田昌幸・幸村父子が隠れ住んでいた屋敷跡に建つ寺院(善名称院、中の写真)や真田昌幸のお墓(善名所院の前にある)や資料館がある。
「真田古墳(真田の抜け穴伝説)」『真田のみち』から真田庵に続く道の途中にある真田古墳。 真田庵から東へ170mほどの所にあり、長い間真田幸村はこの抜け穴を使って大坂に出向いたとも言われていたそうだ。
2016年1月放送のNHK大河ドラマ「真田丸」を記念して、真田幸村が生涯で一番長く住んだと言われる九度山に「九度山・真田ミュージアム」が3月にオープン。九度山での幸村親子のことや生活が詳しく展示されていた。また、NHK「真田丸」の出演者のパネルやドラマで着用した衣装や小道具などが展示されていた。(下の写真)
「旧萱野家(大石順教尼の記念館)」は、若くして両腕を失いながらも、口に筆をとって優れた芸術作品を遺した大石順教尼の書画や愛用品が展示されていた。
真田昌幸と幸村が蟄居され、幸村が大坂夏の陣で戦死するまでのあらすじは以下の通り。 1600年の関ヶ原の戦いで、父・昌幸と幸村は西軍に、兄・信幸は東軍につくことになる。昌幸と幸村は上田城で東軍の徳川秀忠軍を食い止め、決戦場(関ヶ原)に遅参させるなど奮闘したものの、肝心の関ヶ原では、西軍が敗れてしまう。徳川家康は昌幸と幸村を死罪にするつもりであったが、兄・信幸と義父・本多忠勝の懇願もあり、特例として2人に高野山での謹慎を命じた。高野山があまりにも寒かったため、その年の冬に高野山の麓・九度山に移り住み、来るべき日に備えて兵術や水練の特訓を重ねる。また、刀の柄に巻く丈夫な真田紐を織り、家来に全国各地に売り歩かせて、諸国の動静を探ったり、資金集めをしたりしていたと言われている。豊臣と徳川の関係が悪化すると、豊臣の使者が「徳川を滅ぼすため、幸村殿の力を貸していただきたい。」と幸村のもとに尋ねてくる。幸村は感極まって、すぐさま快諾する。14年間住んだ九度山で、幸村は周辺の農民とも親しくなっており、幸村の心境を察した農民は幸村親子の出立に協力したようである。こうして、幸村は九度山の人々に温かく見送られながら、妻と子・大助とともに大坂城に入城する。1614年、大坂冬の陣が始まる時、幸村は精鋭部隊の証である鎧や武具を赤に統一し、「真田の赤備え」として、戦場で目立つ結束と武勇を示した。幸村は、大坂城南側に土作りの頑固な出丸「真田丸」を築いて徳川の大軍を迎え討ち、その武名を天下に知らしめた。翌年、大坂夏の陣でもわずかな兵で家康を狙い、戦列を変えて3度も本陣への突撃を繰り返すなど、家康に自害を覚悟させるほど追いつめたが、怪我をして休んでいるところを討ち取られてしまう。享年49歳であった。また、父・昌幸は1911年病死、享年65歳であった。(関連の資料から)

2016年6月15日水曜日

三室戸寺の紫陽花

宇治市の三室戸寺へ久し振りに紫陽花の写真を撮りに出かけた。50種類で1万株の西洋アジサイ、額あじさい、柏葉アジサイ、幻の紫陽花・七段花等が咲き乱れ、満開の紫陽花が杉木立の間に咲く様は紫絵巻のようで素晴らしい景観だった。紫陽花が満開であり多くの参拝者、見物者が訪れていた。朝9時過ぎに入ったので、まだゆっくりと鑑賞しながら楽しめた。ここは綺麗なハート型の紫陽花があることでも有名であるが、つい見落としてしまい残念だった。
宇治の三室戸寺は、西国観音霊場10番の札所で、約1200年前、光仁天皇の勅願により、三室戸寺の奥、岩渕より出現された千手観世音菩薩を御本尊として創建された。5千坪の大庭園は枯山水・池泉・広庭よりなり、5月のツツジ(二万株)、シャクナゲ(1千本)、6月の紫陽花(1万株)、7月のハスや秋の紅葉など四季を通じて楽しめるお寺である。

2016年6月4日土曜日

学友会「フォト同好会」

6月4日(土)、第9回「フォト同好会」を開催した。今回は「京都府立植物園」での花の撮影及び「ぎゃらりぃ西利」での写真展の鑑賞。
参加者は過去最多の8名。まず、京都駅中央改札口前に10時に集合、地下鉄烏丸線「京都駅」⇒「北山駅」で下車。10時半から12時50分頃まで京都府立植物園の園内及び観覧温室内の花々を鑑賞しながら撮影をした。園内では「花菖蒲」「紫陽花」「バラ」などいろいろな咲き、それぞれ思いのまま撮影して楽しんだ。また、観覧温室でも変わったいろいろな花が咲いていて同じように鑑賞しながら撮影して楽しんだ。
昼食は、徒歩数分にある洋食「東洋亭」本店で計画していたが、一週間前に昼の予約席が取れないことが分かり、急遽和食を中心に探したが、よいころが見当たらず、仕方なく以前昼食をしたことのあるうまいもんや「こむ」(和食)に事前予約をした。当日、植物園に着いて各人から事前に注文(寿司・天ぷら・小鉢・赤出汁付きの1500円)を聞いて予約したため13時頃に到着後、すぐ料理も出てきたし、席も座敷風でゆったりとして昼食をとることができた。
14時頃に「こむ」を出て、地下鉄烏丸線「北山駅」⇒「烏丸四条駅」⇒阪急電車「烏丸駅」⇒「河原町駅」で下車して「ぎゃらりぃ西利」3階の写真展を鑑賞した。写真展は「四季の花華」の各写真が画用紙にプリントされて、霞がかかった様なソフトな感じの花々の写真をみることで勉強になった。
その後、2Fの喫茶店で雑談して解散した。心配した天候も曇で撮影には影響もなく無事に終えることができてラッキーだった。(´▽`)

2016年6月2日木曜日

大和郡山城跡

写真展をみてから大和郡山城跡に立ち寄った。城跡には、梅林門、月見櫓、大手東隅櫓、多聞櫓が復元されていて、豊臣秀長築城当時の城の姿を思い浮かべることができる。現在、天守台は修復工事中(平成29年3月末まで)で入れなかったのが残念。時間の関係もあってすべて見物することができなかったので、梅・桜の名所でもあり再度訪れてみたい。
この郡山城は天正8年(1580)に筒井順慶が築城。順慶には今も語り継がれるエピソードとして、天正10年(1582)に本能寺の変が起こり、親しかった明智光秀より洞ヶ峠に出兵を促されるが、順慶は悩み、結局動かず日和見を決め込む。これを「洞ヶ峠をきめこむ」といい、旗色の良い方につくという悪い意味での言葉として残ってしまったこと。
豊臣秀吉の弟である豊臣秀長は、筒井家の後を引き継ぎ、天正13年(1585)に郡山城に入城。秀長は、優秀な実務派であり、秀吉の参謀役として数々の功績を立て、郡山に入ったときは、大和・和泉・紀伊の三国、百万石を領有していた。様々な大事業を成し遂げたものの、秀長は51歳で死去し、在任期間は6年余りという短い期間だった。豊臣秀長の没後は、水野勝成や松平忠明、本多正勝など領主が目まぐるしく変わり、江戸時代に郡山繁栄の立役者として活躍した柳沢吉里(貞享4年(1687)に柳沢吉保の長男として江戸上屋敷に生まれた。)は、宝永6年(1709)、吉保の後を継ぎ、享保9年(1724)、郡山に入城し郡山城主柳沢家初代となった。吉里は、郡山に養蚕を持ち込み奨励し、経済を振興させた。また、趣味で飼っていた金魚も運んだことから、この地での金魚養殖が始められるようになり、幕末の頃には下級藩士の副業として、明治維新後には職録を失った藩士や農家の副業としてさかんに行われるようになった。この営みには郡山藩最後の藩主、柳沢保申の惜しみない援助があったとされている。そして現在、大和郡山の金魚養殖は日本で最大の産地として発展を遂げた。(以上、関連サイトから抜粋)

中務淳行写真展

 天満橋旧松坂屋ビル8階にある読売文化教室などの写真教室の講師:中務淳行さんの個人写真展「金魚その池その街」が大和郡山市の「やまと郡山城ホール」展示室であり、親友と一緒に出掛けた。
8年前に生駒市から大和郡山市に引越しされ、金魚の街を約1000日間散歩がてらに撮りためていた40数点が展示された。
やはり写真のプロであり目の捉え方がうまくすばらしい写真で参考になることが多かった。その中でも案内写真の薄氷が張る上に一匹の鳥とその下に金魚の群れの写真が大変よかった。
この金魚の写真以外に「大和百景+α」のスライドショーもあり楽しむことができた。ヽ(;▽;)ノ