2015年9月29日火曜日

「加島屋と広岡浅子」展

28日からスタートしたNHK連続テレビ小説「あさが来た」のヒロインは、江戸時代の大坂の豪商「加島屋」に嫁ぎ、女性実業家の先駆けとなった広岡浅子がモデルである。その浅子が創業者の一人である大同生命の大阪本社ビルは「加島屋」本家があった場所に建っている。そのようなドラマの誕生した場所で、「加島屋と広岡浅子」を当時の貴重な資料と丁寧なパネルで紹介されている。
この展示は大阪肥後橋の角、大同生命大阪本社2階のメモリアルホールでNHK連続テレビ小説「あさが来た」が終わる来年の3月までされている。入場料は無料。この展示で広岡浅子の波瀾に満ちた生涯が大変よく分かり、これから「あさが来た」をみるのが一層楽しみになりそうだ。
このメモリアルホールは、建築家ウィリアム・ヴォーリズが設計した大同生命本社ビルの一部として保存されているところ。 また、ヴォーリズが一柳満喜子と結婚したいきさつ(浅子の一人娘の養子婿(広岡恵三・大同生命2代目の社長)の妹で、片や華族のお嬢様、片や外国人で大反対の中で浅子だけが賛成したこと)なども紹介されている。

「NORIN TEN」

1960年代、世界の食糧危機が起こった時、インドやパキスタンの人々を飢えから救った小麦があった。その小麦の基となったのは「NORIN TEN」(小麦農林10号)と呼ばれた、日本人が育種した小麦だった。 この「NORIN TEN」を作ったのは、育種家である稲塚権次郎(1897~1998年)。今から80年前の昭和10年岩手県立農事試験場で育てられた。
この物語は、今では世界の小麦の70%以上の基となった「NORIN TEN」の育種者、稲塚権次郎の愛と苦悩と葛藤を描いた映画である。 明治末期、貧しい農家の長男に生まれた権次郎が、貧しい農家を救うためには、美味しくて収量が高い米を作ることが大切と、育種家の道を邁進し、東京帝国大学農学実科を卒業。そして秋田県農事試験場陸羽支場で、最初に「陸羽132号」の品種選抜、「水稲農林1号」(これが後に「コシヒカリ」となる。)の育種に取り組んだ。その後実力を買われ岩手県農事試験場で小麦増産の国家的プロジェクトに加わり、次々と小麦の新種を開発。そして昭和10年秋、ついに小麦農林10号=「NORIN TEN」を完成させた。これが戦後、GHQの米農務省関係者に持ち帰られ、アメリカやメキシコでこの「NORIN TEN」を基に新種が生み出されて小麦の収穫高が飛躍的に増加した。この新種の種をインドやパキスタンに送られて食糧危機を救ったと、言うことである。
この映画をみて日本の農業が苦境にたっている中で、世界の小麦を育てたのは日本人であったことをはじめて知ることができた。すごい人だったと改めて感銘を受けた。また、権次郎さんのひたむきに、真面目に決して諦めない執念にも感銘を受けた。 これは大阪梅田の「シネ・リーブル梅田」で上映中。

2015年9月26日土曜日

クレパス画名作展

高島屋(大阪)にて、クレパス画名作展が開催され鑑賞。パンフレットによると、クレパスは1925年(大正14)に誕生して、今年で90年になりる。クレヨンとパステルの特性を兼ね備えた描画材料として日本で開発されたクレパスは、学校教材として普及して、子供から大人まで身近に親しまれ愛用されてきた。着色性が良く、しかも伸展性が優れているので、混色・重色・面描き・削りなどが容易なためいろいろな表現方法が創造できる魅力的な画材である。多くの著名な画家たちがクレパスを使って新しい技法に挑戦し、油絵に勝るとも劣らない作品を描いてきた。本展では、クレパスの開発と普及に関わった画家・山本鼎(かなえ)をはじめ、大正・昭和の時代に日本の美術画壇の中枢で活躍した巨匠たちが描いたクレパス画とともに、現在、第一線で活躍中のアーティストたちの新作もあわせて約150点が紹介されていた。 
風景画、静物画、人物画など繊細に描かれたクレパス画を鑑賞し、展示会の出口には、大人や子ども用のぬりえのコーナーもあり、実際にクレパスを使ってぬりえをして楽しんだ。
この機会にクレパスを使って風景画を描いてみたいなぁ~と、思う。

2015年9月21日月曜日

無鄰菴(山県有朋の別邸)

明治27年から明治29年(1896)にかけて明治・大正の元老である山県有朋(やまがたありとも)が京都東山に造営した別荘、「無鄰菴(むりんあん」を訪れた。(今回で2回目)
有朋は京都の木屋町二条に別荘を構え、その名を「無鄰菴」といい、さらに新しい地に好みの別荘を作りたいと考え、明治27年、現在の地で「無鄰菴」の造営にとりかかり、工事中に日清戦争の勃発により一時中断したが、明治29年(1896)に完成した。
有朋はこの別荘の庭園をこよなく愛し、多忙な公的生活の合間にも夫人を伴ってしばしば訪れたが、その後大正11年に83歳で死去。 
敷地の大半を占める庭園(面積約3135平方メートル)は、有朋自らの設計・監督により、造園家・小川治兵衛(じへえ)が作庭したものである。ゆるやかな傾斜地に、東山を借景とし、疏水の水をとり入れ、三段の滝池、芝生を配した池泉廻遊式庭園である。(以上、パンフレットなどから抜粋)
別荘内にある洋館は明治31年の建立で、2階には江戸時代初期の狩野派による金碧花鳥図障壁画で飾られた部屋があり、ここで明治36年(1903)4月21日,元老・山県有朋、政友会総裁・伊藤博文、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎の4人によって、日露開戦直前のわが国外交方針を決める「無鄰菴会議」が開かれた部屋が、当時のまま保存されていた。
天王寺の住友本家跡の「慶沢園」や平安神宮の庭園など多くの庭を手がけた治兵衛作の庭園をゆっくりと散策し、また和室に座り心静かに庭園をみて過ごした。 少しばかり紅葉も始まりかけていたが、11月中頃にはもう一度訪れてみたい。

2015年9月15日火曜日

大阪茶臼山古墳


「二科100年展」「慶沢園」と、この大坂茶臼山古墳をも訪れた。これは天王寺区茶臼山町にある前方後円墳で、大阪府指定史跡に指定されているもの。古墳自体は5世紀にこの地の豪族のために作られた墓といわれ、大阪市内でも最大級の前方後円墳だが被葬者は不明とのことである。
また、この茶臼山は慶長19年(1641年)の大坂冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では真田信繁(幸村)の本陣となって「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台となったところでも有名である。
今回、はじめて茶臼山をひと周り散策して、大坂夏の陣で「茶臼山」に布陣する西軍・幸村軍とそれに対峙する東軍の布陣の様子を示した説明と絵の立看板もあり、改めてその当時のことを思い巡らせることができた。
上の写真は、茶臼山の石碑。下の写真は、河底池にかかる和気橋からあべのハルカス方面を望む。

 

慶沢園(けいたくえん)

「二科100年展」を観ての帰りに「慶沢園」に立ち寄り、純日本風の庭園として知られる「慶沢園」を散策した。入園のパンフレット等によると、この「慶沢園」は住友家がこの地に移った際、約10年をかけて本邸(茶臼山邸)とともに造営した庭である。当時の住友家15代吉左衛門は明治28年(1895)からこの地の用地買収を始め、同41年に着工。大正4年(1914)には、まず本邸を鰻谷から移転したが、その間、庭園を「恵沢園」と命名し、大正7年の完工時に「慶沢園」と改めている。この庭園の設計・施工を担当したのは当時の高名な庭師であった「植治」こと小川治兵衛である。治兵衛は山県有朋の無鄰庵を手掛けて以来、京都を中心に活躍し、日本の近代造園に大きな足跡を残した造園家で、彼の手になる庭園は国や京都市の名勝などに多く指定されている。 「慶沢園」は、大名庭園をモデルとした林泉式回遊庭園である。中島を浮かべた大池を中心に、三方に築山を築き変化に富んだ地形をつくり出している。周辺には園路や飛石、橋をめぐらせ、茶室や四阿(あずまや)が配されている。
大正14年(1925)、住友家は神戸住吉に本邸を移し、翌、昭和元年に敷地12940坪を大阪市へ寄贈。昭和9年(1934)には一般公開され、同11年に敷地西半の住友邸宅跡に市立美術館が完成し、敷地東半の「慶沢園」は戦後の昭和33~35年ごろに本格的な整備が実施され、今日に至っている。
広々とした庭園入ると、あべのハルカスが目にとまり大池にその姿が写し出されていた。(下の写真) 入園者が少なく静かな林泉式回遊庭園をゆっくりと散策して楽しんだ。(´∀`)

二科100年展

大阪市立美術館にて「伝説の洋画家たち 二科100年展」が12日から開催されているので出かけた。
これは1913年(大正2年)から二科展が今年の秋に第100回を迎える記念として、二科100年の歩みと、その年毎の入選作品など132点(内歴史的な名画120点)が展示され、伝説の洋画家の名画を鑑賞し、楽しむことができた。(´▽`)

2015年9月10日木曜日

画業20周年片岡鶴太郎展

画業20周年の「片岡太郎展 還暦紅」が昨日(9日~23日)から阪急うめだ本店9階の阪急うめだギャラリーにて開催された。
役者として活躍する一方で、芸術家としても多彩な才能を発揮し、見る者に感動をあたえ続ける作品を生みだす片岡鶴太郎さん。その作品は絵画から陶芸、また着物の染付けと多岐に渡っている。 
40歳からはじめたという画業が昨年(2014年)、還暦を迎え20周年となり、なお一層エネルギッシュに活動し続けておられる様子や今回は『金魚〈二曲屏風〉』など、未発表作品を含めた120余点が展示さていた。 本日は2日目であるが多くの人たちが訪れて絵画・陶芸品をみて楽しんでいる様子が伺えた。
常に新しいことに挑戦し続ける、片岡鶴太郎さんのエネルギーに満ちたこれらの作品を十分に鑑賞することができた。 
役者としても、また画業としても素晴らしい才能の持ち主であることを改めて認識させられた。 

2015年9月4日金曜日

多賀大社参拝

2日から4日まで田舎へ。夏野菜のキュウリやトマトの後始末、その後に毎年のことであるが9月2~6日が大根と水菜の種まきに最適な日のため行った。
畑作業も終わり、4日に久しぶりの多賀大社参拝と境内の奥書院・庭園を拝観した。
古くから「お多賀さん」の名で親しまれる滋賀県第一の大社。 日本最古の書物「古事記」によると、ここの祭神の伊邪那岐大神 (いざなぎのおおかみ)伊邪那美大神(いざなみのおおかみ) の両神は神代の昔に、初めて夫婦の道を始められ、我国の国土、続いて天照大神をはじめとする八百万(やおよろず)の神々をお産みになられた。
このように、命の親神様であることから、古くから延命長寿、縁結び、厄除けの霊神として信仰を集め、鎌倉から江戸時代にかけては、武家や民衆の信仰が一気に広まった。例えば、甲斐の武田信玄は25歳の厄年に際し、黄金2枚を寄進して厄除けを祈願、また太閤秀吉は母大政所の病気に際して「命の議、三カ年、ならずんば二年、げにげにならずんば三十日にても」と祈願文を寄せ、米一万石を寄進、幸いに大政所は治癒され(五年後に亡くなられた)、その一万石で正面の太閤橋や奥書院庭園が築造されたと伝えられている。庭園は国名勝指定になっている。秋の奥書院の紅葉などは見事なものらしいので、秋には再度訪れてみたいものだ。
お伊勢参らばお多賀へ参れ、 お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡もある。年間約170万人の参拝者があるとのこと。