2013年1月31日木曜日

「昭和幻風景 ジオラマ展」を見物

ジオラマ作家、山本高樹氏の最新作をはじめこれまでに制作した作品を一堂に展覧する「山本高樹 昭和幻風景 ジオラマ展」が髙島屋7階グランドホールで開催されているので見物に。  山本高樹氏は、昭和の街並みと、そこに住まう人々をテーマにした作品を作り続ける、ジオラマ作家として知られている。単にモチーフを縮小しただけでなく、時代の味わいや空気感を凝縮した作風が高い評価を得ている。最近では、連続テレビ小説「梅ちゃん先生」のオープニングタイトルのジオラマを制作し注目を集めた。
この展覧では、「市電19系統新橋行 東京銀座」「冬支度 長野飯山」「雪国の市 新潟越後十日町」「坂の上の遊郭 広島尾道」「墨東の色町 東京向島」「浅草神社の三社祭り」など昭和時代の懐かしく、あたたかみのある多くの作品が展示され、レトロな世界を楽しむことができた。
その中でも「浅草神社の三社祭り」で3基の神輿を担ぐ人々、見物する人々、参拝する人々など約320人がそれぞれに表情豊かに制作されているのには驚いた、また神社本殿、社務所、鳥居、境内などの制作も精密で凄い! ヽ〔゚Д゚〕丿スゴイ

2013年1月27日日曜日

連続講座「人生の終い方」を受講

大阪YMCAで朝日新聞厚生文化事業団主催の連続講座「人生の終(しま)い方」の「後悔しないための人生設計図」~『死を視野に入れて』かかわる、生きる~と題して、社会福祉法人老人ホーム「同和園」付属診療所所長・医師の中村仁一先生(72歳)の話(1時間)と朝日新聞医療サイト「アピタル」編集長の平子義紀さんとの対談(1時間)があった。 非常におもしろく話されてあ~と言う間に時間が過ぎた。中村先生の主な著書に『大往生したけりゃ医療とかかわるな』(幻冬舎新書)がある。概要は次の通り。
人間には「往き」(繁殖期)があり、折り返し点(大体男女とも55~60歳)があり「還り」(後繁殖期)がある。繁殖期を終えて生き物としての賞味期限が切れた「還り」の行き方の基本「老い」には寄り添い、「病」には連れ添う、「健康」には振り回されず、「医療」は限定利用を心がけ、「死」には妙にあらがわない。諸々のおかげをこうむって生かされていることに気づき、感謝する。
以上であるが、もう少し詳しくは、
1)医療に対する重大な「誤解」と「錯覚」がある。本人の「自然治癒う力」に治せないものが他人の医者に治せるはずがない、病気やケガを治すのは本人である。生活習慣病は完治しないので、仲良く付きあい、闘病はよくない。「ガン」も老化の一種・・・繁殖を終えていれば「手遅れ」の幸せもある。 2)「老い」にはこだわらず寄り添う。年寄りはどこか具合の悪いのが正常で、「老い」を「病」にすり替えない。残存機能、洗剤機能を十二分に活用し、受け取り方をプラス思考に変える。
3)「健康」には振り回されない。「健診」や「人間ドック」は病人づくりである。4)「病」にはとらわれず連れ添う。不具合の原因は老化か老化絡みで、繁殖を終えていれば病気も寿命のうちである。4)「死」には妙にあらがわない。所詮、医療は「老いて死ぬ」という枠は破れない。年寄りは「再生医療」や「最先端医療」には近寄らない方がよい。5)「死」を視野に入れて、目をつぶる瞬間「悪くない人生だった」と思えるために「余命6カ月と言われたら」のエクスサイズ、生前葬パーティーを開く、年1回棺桶に入るなど実行してみる、である。
「自分の死を考える」ための具体的な行動は、1)遺影を撮る、2)遺言を書く、3)別れの手紙を書く、録音、録画を準備する、4)「余命6カ月」を想定し、したいことを優先順位を書く、5)死に装束を誂える、6)骨壺を用意する、7)棺桶を手に入れる、8)事前指示書を完成させる、9)献体、臓器の提供の手続き、10)墓地を手に入れる、11)戒名をもらう、12)人生の節目に「生前葬パーティー」を行う、13)事ある毎に家族や周囲と「死」について語る、14)ものの整理をする。 というものだ。 今回、この講座を受けて昨年来考えている「人生の終え方」について、今年は一つずつ具体化していこう!と改めて思う。この講座の概要が分かる動画Youtubeの「山本晋也と人間一滴」で中村先生とのインタービューはこちら

2013年1月26日土曜日

会社OBの北支部新春懇談会へ

松愛会枚方北支部の毎年恒例の新春懇談会が行われ久しぶりに出席。 門真市の松心会館3Fのロータスホールにて119名出席のもと開催された。
第一部は支部長の年初の挨拶、第二部は余興として関西外国大学のフラメンコ部9名(名称:AndaLale、伴奏3名男性、ダンサー6名の女性)によるフラメンコと 続いてシャンション歌手の岩本節子さんによるシャンソンや演歌(5曲)を聴いて楽しんだ。 岩本さんは枚方在住のシャンソン歌手として各地でのコンサートや歌謡(シャンソン)教室を開くなど幅広く活動されているとのこと。 はじめの挨拶で、私岩本節子を知らない方は? と投げかけられたがほとんの人が手をあげていた。私も知らず今回、初めてそのことを知った。
第三部は懇親会。懇親会の前に第一部で挨拶の前平野衆議議員が遅れてこられて挨拶。前月の衆議院総選挙で、20数年に及ぶ衆議院議員として初めて落選したお詫びと感謝、落選したらただの人で終わらないように今後も政治家としての志をもって頑張るのでよろしくとの話だった。その後、明日種子島宇宙センターでH2Aロケット打ち上げ(情報収集衛星)があり、前文部大臣であったので出かけると会場をあとにされた。
ここ4年程出席していなかったので、久しぶりに懐かしい人にも多く出会うことができ、楽しいひと時で大変よかった。(●´ω`●)

2013年1月19日土曜日

「げんき~」Gのボランティア活動

ボランティア活動のハシゴ。午前中は伊香賀校区福祉委員会の新年のつどい(栄老人集会所に約70名参加)でのボランティア。プログラムは約45分の歌体操(3曲)→新舞踊→どじょうすくい踊り→参加者3名とのどじょうすくい踊り→南京玉すだれ→おてもやん踊り。最後時間があれば「炭坑節」の予定が時間がなく中止。それなりに楽しめてよかった。(●´ω`●)    午後は東香里ケ丘の老健施設「ひらかた聖徳園」の新年互礼会(約70名の入所者)でのボランティア。昨年も15日に同じ新年互礼会に行っているので、今回で2回目。昨年と同様フラダンスに続き「げんき~」のメンバー4名による「どじょうすくい踊り」、帰り際に数人の観衆(施設利用者)からよかったと握手を求められるなど、大変喜ばれた。この踊りを一昨年の1月から始めて2年となった。
午前中のボランティアは、謝礼3、000円(交通費分)と弁当、お土産付きだったが、午後は本当のボランティア。まあ~メンバーと一緒に楽しめた一日だった。(; ̄д ̄)

2013年1月16日水曜日

「菅原神社(長尾)」を参拝し取材

パナソニック松愛会枚方支部HPの「ひらかた発見」の第4シリーズとして枚方市内の神社を取材し、私たちの眼から見た神社を紹介しようとスタート。今回4回目として長尾にある「菅原神社」の取材を行い、神司さんから詳しい話を聞くことで、歴史ある神社を改めて認識した。(詳しくは後日、パナソニック松愛会枚方支部HPで紹介)   この神社は、寛永二十年(1643年)、領主の久貝因幡守(いなばのかみ)正俊(まさとし)は、家臣の細谷善兵衛に命じて八田川の川筋で当時八田広と呼ばれた荒地を開梱させ、新田開発を行った。新田は開墾の翌年に福岡村と名付けられたが、貞享三年(1686年)に長尾村と改称された。菅原神社は、慶安三年(1650年)に正俊(まさとし)の子正世(まさよ)が、長岡天神の分霊を勧請して社殿を造営したのが始まりとされている。祭神は菅原道真で、社殿は文化四年(1807年)の再建であるという。歴史的にはまだ新しい神社。
社の付近はデンダイウヤクの群生地で、市内でも重要な植物群落である。デンダイウヤクは中国原産で日本へは享保年間(1716 - 1735年)に伝来し、九州や近畿などで野性化している。根を健胃薬として利用する。古く中国で、秦の始皇帝が不老長寿の霊薬くを求めて、徐福という人を日本に派遣したという話もある。この時の霊薬というのが、このテンダイウヤクであるとされている。


2013年1月12日土曜日

「杉 良太郎の絵画展」の鑑賞

近鉄百貨店上六の9階催会場にて俳優として歌手として幅広い活動を続ける杉 良太郎氏の絵画展(~杉 良太郎が描く日本の四季~)が本日12日(土)~31日(木)開催され(入場料一般500円、朝日友の会員は無料)、初日の一番に鑑賞。 この本展では、自然美豊かな山や花、鳥などの作品を中心に1992年から現在に至るまでの油彩100余点を「四季」に分け絵画活動を本格的に紹介する展覧会として、アーティスト・杉 良太郎の魅力が紹介されていた。 特に目に付いたのは四季の富士山(11点)と花(バラ、ひまわり、ポピーなど)の絵画だったが、どれもこれも(;´Д`)スバラスィ絵画。その中に1枚だけ人物画の夏ちゃん(伍代夏子)の上半身画も展示されていたが、なかなかうまく描かれていた。   杉さんは芸能界の第一線で活躍する傍ら、長年福祉活動にも力を入れ、その献身的な功績に対し紺綬褒章、緑綬褒章、大臣表彰、芸能では紫綬褒章を受けている。このように多忙な芸能活動と福祉活動の合間に、力を入れていることに絵画制作がある。1991年から独学で始めた油彩は、今では趣味の領域を越え、年々本格的な制作活動へと変貌している。1998年には作品「大地へ」が第54回現代美術展で北國賞を受賞。翌1999年にも同展の第55回展で作品「秋櫻」が佳作に、2012年作品「花の下にて」で第51回大調和展奨励賞を受賞するなど、高い評価を受けている。(絵画展のチラシから抜粋)
芸能界で活躍する中で、自費で長年の刑務所慰問や献身的な福祉活動、ベトナムの特別大使などをされ、凄いなあ~~と改めて敬服。本日から隣りの新歌舞伎座では、杉良太郎・安田美沙子主演の「樅の木は残った」の公演(12日~31日)がスタートしていた。

2013年1月10日木曜日

片埜神社の枚方ゑびす祭へ

1月9~10日の3日間、徒歩約10分にある片埜神社で「年のはじめのえべっさん」が商売繁盛、社運隆昌、金運向上を祈願するお祭り「枚方ゑびす祭り」が行われ、露店も出て多くの参拝客で賑わっていた。本日は中日で恒例の歌謡ショーが夜の8時からあり参拝も兼ねて出かけた。 2008年7月にデビューの歌手井上れいかさん(30歳)のオリジナル曲「水の都に夢が咲く」、「淡雪の恋」など3曲と懐メロを含めて8曲披露、寒い中であったが多くの参拝客が聴き入っていた。
この神社では秋祭りに「カラオケ大会」と合わせて歌謡ショーが行われており、毎年恒例行事の一つになっている。

2013年1月7日月曜日

フイルムカメラを売却!

売却した一眼レフカメラ
ペンタックスの一眼レフフイルムカメラ MZー3、Zー1Pを大阪駅地下1階の中古カメラ販売店(八百富写真機)で売却。
写真を趣味として初めてMZー3を購入したのは、もうあれこれ15年程になるだろうか、カメラ趣味の知人O氏にどこのカメラが良いかと相談したら、Canon、Nikonなどあるがペンタックスはあまり機種変更をしないし、技術的にも優れているのでよいのではとのことで、その当時発売された最小型で最軽量の中型のカメラで、カメラ愛好者や雑誌にも高い評価があったので購入。そのあと、2年程して多重撮りができないこともありもう1台欲しくなりペンタックスで高級品のZー1Pを購入。この2台で撮影をしてきたが、デジカメが普及しだしてペンタックスで初めての一眼レフのデジカメistDを購入、続けてK20を(5~6年前)。デジカメで撮りだすと面倒なフイルムでの撮影は全くと言っていいほどしなくなり、ず~とホコリをかぶっていた。
2~3年前から処分をと考えていたがやっと売却。もう10年以上経っているので、まあ~5000円程度で買ってくれたらと期待したが、レンズやカメラ本体に少しキズがあるなどで、結局1500円だった。

2013年1月3日木曜日

映画「るろうに剣心」の再鑑賞

映画「るろうに剣心」(昨年8月25日から一般公開され2回鑑賞)のDVDが昨年12月に発売され年末に購入し、再度鑑賞。
監督はNHK大河ドラマ「龍馬伝」の監督の大友啓史氏、主演は佐藤健君で他に武井咲・吉川晃司・蒼井優・江口洋介・香川照之各氏など。この映画は、一昨年8月2~4日の3日間エキストラとして参加。この3日間、朝6時に浜大津のアーカス横の駐車場に集合し、衣装替えと化粧を滋賀銀行保健センターで行い、撮影現場(三井寺・善法寺の竹林)へ、午後6時ごろに終了し、帰宅は午後9時前。 朝が早く撮影の待ち時間も多く、帰宅も遅く相当疲れたが、へこたれることなく3日間続けられた。また、撮影が終了してバッタリと主演の佐藤健君に会い、一言会話したこともあって非常に思い出のある映画だった。(●´ω`●)  この3日間撮影された「鳥羽・伏見の戦い」は、1868年1月に起こった合戦で、真夏に竹林に雪を積もらせ雪を降らせながらのスゴイ合戦シーンの撮影で、その雰囲気が見事に映し出されていた。約10分?のスゴイ合戦のシーンの中で、我々エキストラのほとんどは討ち死にの状態で倒れているシーン、多分これかなあ~~と思い探すが分からず・・・・ザンネン。 その「鳥羽・伏見の戦い」のシーンはこちら (スミマセン映像が少し悪いです。)

2013年1月2日水曜日

京都五条大谷本廟に参拝

京都五条の本願寺大谷本廟(西大谷)に、義父・両親の納骨をしており2年ぶりに訪れた。花屋でお供えの花を買い仏殿にお参り、その後6階建ての第一無量寿堂(むりょうじゅどう)に田舎のお寺の納骨仏壇(5階の「かの14号」)にて参拝。この大谷本廟は、京都市東山区五条橋東にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の祖廟。宗祖親鸞の遺骨を祀る。龍谷山(りゅうこくざん)と称し、俗に西大谷とよばれる。もともと鳥辺野の北、大谷の地にあった親鸞の墓所に建てられた廟所が本願寺で、1478年(文明10)本願寺が蓮如(れんにょ)によって山科に再興されるまでは、寺は長い間さびれてはいたけれども、いわば浄土真宗の本山であった。その故地は現在の知恩院の境内である。現在地には1603年(慶長8)に移し変えられ、旧名を継いで大谷の名を用いた。仏殿その他の建造物は1867年(慶応3)に火災によって焼失したので、1870年(明治3)以降に再建されたものである。現在、門信徒のための近代的な納骨堂(無量寿(むりょうじゅ)堂)その他も建立されている。 (関連サイトから抜粋)

2013年1月1日火曜日

片埜神社へ初詣

2013年が明けた。午後5時過ぎに自宅から徒歩約10分にある片埜神社へ初詣。いつもと違って正月だけは?行列ができるほど多くの初詣客で賑わっていた。この7年前から毎年清酒1本を献酒しているが、毎年ずらあ~と並んだ献酒をみると1本はあまり見当たらない、ほとんど2本で(1本献酒の人の割合は15~20%)、今年こそは2本と考えていたが結果的には例年通り1本。昨年は次女の新築・出産などめでたいこともあったし、自分にとってもそれなりに満足のいくよい年だった。今年も家族の健康と(;´Д`)スバラスィよい年になるようにと祈願。
「片埜神社」(概要)は、第11代・垂仁天皇(在位:元年~の御代、出雲の豪族・野見宿禰(土師・菅原氏の祖)が当麻蹴速との戦いに勝
ち、河内一帯を賜わった。そして、当所、阪の地に出雲の神様「建速須佐之男大神」を奉鎮し、土師氏の鎮守としたのが始まりである。欽明天皇(539年~ 571)の御代に勅により「片野神社」と号した。
鎌倉時代の末期、元弘建武の兵火に罹って社殿の悉くを焼失したが、室町中期になると、禁中から、吉田家によって荘厳な儀典が執り行われ社殿が再建された。しかしながら再び、天文・永禄年間に、三好・松永らの戦いによる兵火に見舞われること数回、社殿をはじめ旧記宝物の悉くが灰燼に帰したことは誠に惜しい事である。天正11年、豊臣秀吉公が大阪城築城の際、鬼門の方角に位置していた当社を大阪城鬼門鎮護の社と定めて尊崇、修築した。当社が大阪の鬼門除け、方除け社として世に知られる様になるのはこの時からである。さらに慶長7年には豊臣秀頼公が片桐且元を総奉行として復興、本社を大造営させたのが現在見る本殿、正門、築地塀である。

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。
昨年「E(え)ちゃんの気ままな日記」をご覧いただき、誠に有難うございます。今年もなにとぞよろしくお願いいたします。
皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

平成25年 元旦